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優勝~~~♪

優勝ーーーーー☆



凄かったですね~!!!

アジア・カップ優勝ですよぉぉぉぉ~!


優勝~~~♪_f0058691_60055.jpg

もう、初っ端からドキドキの連続で、手に汗握る、とはこのことか.....みたいな展開でした。
さすがにオーストラリアは、手ごわかったです。
でもでも、先のワールドカップで見せてくれたチームワークには、益々磨きがかかって、見ていて、ほぉんと頼もしかったです。ワールドカップでの守り優先の戦い方から比べると、今のチームはパスワークも綺麗だし、何といっても動きがすごい。
皆の意識が前を向いていて、戦う戦士そのもの。
ほぉんと、かっこよかった! (バルセロナを観ているのかと、思ったよ(笑))

今回のアジアカップは、予選は全く観ていなくって、決勝トーナメントに入ってから観始めたんですけれど、こぉんなに素晴らしい戦いをするチームだとは!
アジア・№1にふさわしいチームですね♪
おめでとうーーーーー!


えー、実は私、代表の監督がなかなか決まらず、仕方なく(?)みたいな感じでザッケローニさんになった時は、「.....」だったんです。
去年、ユヴェントスを一時率いていた時の、あの自信なさそうな表情が忘れられなくって。大丈夫かいな、と。
でも、意外とザッケローニ監督、日本の水が合ったのか(笑)、お見事な采配でしたね!
昨年のユヴェントス時代の、下を向きがちな表情とは打って変わって、明るいのなんの。自信に満ち溢れていますね。

ワールドカップの時のメンバーに加え、ヨーロッパで活躍している選手が大勢いるってことも強みでしょうね。
イタリアやドイツのリーグはよく観てるんで、長友くん、香川くん(怪我で決勝戦は出られず)、そして内田くん♪、お馴染みの選手たちが大活躍です。
あ、長友くん、ユーヴェに来てくれるだなんて噂あるんですけど.....。(本当なら超嬉しいよーーー)
若い選手が多いチームなんで、これからの活躍、大・大・大期待です!


わぁ、ぎゃーぎゃー騒ぎすぎて、喉痛いです。
ほほほ、今日は、祝い酒~♪ (お土産のコソヴォの赤ワイン♪ → これがねぇ、むっちゃ美味しいの!)


※画像は、asahi.com より。

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# by yokocan21 | 2011-01-30 06:02 | サッカーとかF1とか  

キュルテペ・アッシリアの展覧会

前回記事の続きです。
『アヤ・イリーニ博物館(Aya İrini Müzesi)』で行われている展覧会とは、これ。
キュルテペ カニシュ―カルム(Kültepe Kaniş-Karumu)展
キュルテペとは、カイセリ(Kayseri)から北東5㎞のところにある遺跡です。
カニシュ王朝の中心地・アッシリアの商業の中心地として栄えたコロニーで、1948年から発掘が続けられています。キュルテペは、出土した粘土板によると、昔の名を「カニシュ(Kaniş)」または「ネシャ(Neşa)」といい、アナトリアからシリアを通ってメソポタミアへと至る重要なポイントであったため、特に紀元前3000~2000年にかけて、商業および芸術のコロニーとして重要な役割を果たしてきました。

今回の展覧会は、アンカラのアナトリア文明博物館、カイセリ博物館、そしてイスタンブル考古学博物館の蒐集品より、496点が展示されています。


では、展示品をいくつか紹介します。超私好みのものばかりですので.....。館内はフラッシュ禁止のため、照明の関係で写りの悪いもの、またガラスケースに反射して見にくいものがありますけれど、ご了承を。


アヤ・イリーニ聖堂(博物館)のアーケード(回廊)部分が展示場になっています。
キュルテペ・アッシリアの展覧会_f0058691_200389.jpg



左:牛(?)ブタ(?)の顔付きの水がめ。(BC.1830~1700年)
右:牛さんがいっぱい並んだ壺。 (BC.1830~1700年)
キュルテペ・アッシリアの展覧会_f0058691_201960.jpgキュルテペ・アッシリアの展覧会_f0058691_2013163.jpg



左:頬紅のケース。 (BC.1830~1700年) 当時も今も必需品。
右:小さなベル。鈴。 (BC.1830~1700年)
キュルテペ・アッシリアの展覧会_f0058691_201573.jpgキュルテペ・アッシリアの展覧会_f0058691_2022136.jpg



左:しゃれこうべの飾り物。(BC.1830~1700年) 黄金のシートで偉い人のしゃれこうべを飾ったようですね。 ひゃーっ! 
右:ゲーム盤。 (BC.1950~1835年) あの時代のチェスのようなもの? 
キュルテペ・アッシリアの展覧会_f0058691_2024843.jpgキュルテペ・アッシリアの展覧会_f0058691_203136.jpg



キュルテペ・アッシリアの展覧会_f0058691_2034675.jpg風呂桶です。(BC.1830~1700年) 

かなり小さいんですけれど、当時の人達って、小柄だったのでしょうか。


表面に描かれた動物が可愛かったんで、UP。
キュルテペ・アッシリアの展覧会_f0058691_2042194.jpg



二つ口のボックス。(BC.1950~1835年) 目と鼻があって、口をあんぐりと開けているような.....可愛い♪ 何を入れていたのか、むっちゃ気になるぅ。
キュルテペ・アッシリアの展覧会_f0058691_2045084.jpg



動物の姿のリュトン(酒杯)。 (BC.1950~1835年) 犬? オオカミ?
キュルテペ・アッシリアの展覧会_f0058691_2051567.jpg



水差し。(BC.1950~1835年) 注ぎ口が二つって、実用的!? 使ってみたい!
キュルテペ・アッシリアの展覧会_f0058691_2054364.jpg


ピッチャー。 (BC.1950~1835年) ↑の水差しとセットか? 
キュルテペ・アッシリアの展覧会_f0058691_2061027.jpg



船形のリュトン。 (BC.1950~1835年) 他の粘土細工のようなリュトンとは違い、かなり精巧な出来です。クリックすると拡大します。
キュルテペ・アッシリアの展覧会_f0058691_2021380.jpg



粘土板。 (BC.1950~1835年) これは、「スズ(錫)とロバの輸送に関する文書」。このような楔型文字の粘土板が大量に出土しているようです。
キュルテペ・アッシリアの展覧会_f0058691_2085155.jpg



このキュルテペでは、これまでに25000点もの粘土板が出土しており、アッシリアや地元の商人の活動の様子や、管理、法体制、芸術に信仰に関する事柄が記されているようです。

* * * * * * * * * * * * * * * *

当時の人たちは、今よりももっと自然と共に生きていたんだなぁ、というのがよくわかりました。特に、身近にいたであろう動物たちの写実の上手さ! そして、へたウマな粘土細工の可愛いことといったら~! いや、粘土細工だなんて失礼ですね。立派な芸術作品。
それぞれに表情があって、生活の豊かさを感じられます。


キュルテペという一つの遺跡に関しての展示は、ちょっと珍しいかもしれません。
展示は、3月28日まで。月曜日休館。9:00~17:00まで開館です。なお、入場料は無料。
館内はフラッシュ撮影禁止です。


なお、ご一緒したmadamkase さんのブログでも、詳しく紹介されていますよ。


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# by yokocan21 | 2011-01-26 20:15 | 旅・散歩  

アヤ・イリーニ博物館(アヤ・イリーニ聖堂)

先週、お友達の madamkaseさんと、旧市街、トプカプ宮殿(Topkapı Sarayı)の前庭にある、アヤ・イリーニ博物館(Aya İrini Müzesi)へ行ってきました。
これまで、アヤ・イリーニ博物館は何度も外から見たことがあるんですけれど、中には入ったことがなかったので、ワクワクして出かけました。
実は、ある展覧会を見に行ったんですけれど、その展覧会の様子は次回ということで(写真、まだ整理ついてないもんで)、今回は、アヤ・イリーニ博物館について、ちょっとお話を。ちなみに、その展覧会も、すーっごく良かったですので、次回、お楽しみに~。

アヤ・イリーニ博物館(アヤ・イリーニ聖堂)_f0058691_8114825.jpg

この建物、今は博物館となっているんですけれど、元々はビザンティン帝国時代の聖堂でした。
トルコ語では、『アヤ・イリーニ』、ギリシャ語では『ハギア・エイレーネー』と呼ばれる聖堂は、色んな歴史を経て今に至ります。(イスタンブルにあるビザンティン建築の殆どがそうであるように)


アヤ・イリーニ聖堂のある場所には、元々、ビザンティオン(ビザンティウム)の時代に聖堂が立っていたらしいです。その場所に、4世紀初頭、コンスタンティヌス1世が、アヤ・イリーニ聖堂を建立しました。
アヤ・イリーニ聖堂は、この街で最古の聖堂で、アヤ・ソフィア大聖堂が建てられるまでは、ここに主教座が置かれていたそうです。

このアヤ・イリーニとは、「聖なる平和」という意味で、コンスタンティヌス1世の時代の実在の人物の名前だといわれています。コンスタンティノープルでは、まだキリスト教が浸透していなかった時代、民衆に非難・罵倒されながらも布教に命を注いだ人物なのだそうです。

そんな聖なる人物の名を冠したこの聖堂は、532年にニカの反乱で破壊され、その後、548年にユスティニアヌス1世が再建しました。現在ある建物は、この時代のもの。
8世紀には地震の被害にあい、かなりなダメージを受けるも、コンスタンティヌス5世が修復しました。その時、内部がモザイクやフレスコ画で飾られました。

1453年に、コンスタンティノープルが征服されてオスマン帝国になってからは、武器弾薬庫として利用されたり、また、スルタン・アフメット3世(Sultan III. Ahmet)の時代(18世紀初頭)には軍事博物館として利用されました。そして、スルタン・アブドゥルメジト(Sultan Abdülmecit)の時代(19世紀中頃)には、軍事と考古学博物館として利用されました。

1970年代には、大規模な修復がなされ、現在は、トルコ・文化観光省の管轄となっています。夏の「イスタンブル・国際音楽フェスティヴァル」の会場として利用されたり、展覧会やクラシックのコンサートホールとして利用されたりしています。

なお、普段は閉鎖されていて、催しがあるときのみ開館します。



ざぁっと、こんな歴史があります。
では、内部を見ていきましょう。

アヤ・イリーニ博物館(アヤ・イリーニ聖堂)_f0058691_812268.jpg

まずは、入口の部分。

いかにも、歴史ありそうな雰囲気です。




アヤ・イリーニ博物館(アヤ・イリーニ聖堂)_f0058691_814853.jpg

フラッシュ付けずに撮ると、こんな感じ。

ここは、身廊に続くアーチのある部分。

この右側向こうの部分で、今回の展覧会は行われていました。



展覧会が行われていた部分。ドームのある身廊の外側、中庭をアーケードでぐるりと囲んだ部分です。外部拝廊というんでしょうか?
アーチと、レンガの石積みが綺麗ですよね~。
アヤ・イリーニ博物館(アヤ・イリーニ聖堂)_f0058691_815241.jpg



アヤ・イリーニ博物館(アヤ・イリーニ聖堂)_f0058691_8163391.jpg

アーケード部分から、中庭を隔ててドームを眺める。

このような、ドームとバシリカが合わさった形式のものを「円蓋式バシリカ」というんだそうです。

初期ビザンティン時代の代表的な建築様式なのだそうです。



アヤ・イリーニ博物館(アヤ・イリーニ聖堂)_f0058691_8173024.jpg

大きな十字架の描かれた身廊部分。

この内部には立ち入り禁止のため、ガラスの外側から撮影したものですので、全体がいまいちわからず。


アヤ・イリーニ博物館(アヤ・イリーニ聖堂)_f0058691_8181548.jpg

ですので、こちらを。(wikipediaより拝借しました)


アヤ・イリーニ博物館(アヤ・イリーニ聖堂)_f0058691_8185223.jpg

展覧会会場の壁にあったモザイク。

この聖堂の床にあったものでしょう。

保存状態ばっちり。




こちらも、展覧会会場の壁にあったもの。
アヤ・イリーニ博物館(アヤ・イリーニ聖堂)_f0058691_8193622.jpgアヤ・イリーニ博物館(アヤ・イリーニ聖堂)_f0058691_820113.jpg

右:ビザンティン帝国のお妃と皇帝(顔がないですけれど)&子供?
左:どなたでしょう?



お隣にある、ビザンティン建築の最高峰・「アヤ・ソフィア大聖堂」の小型版のような「アヤ・イリーニ聖堂」。
イスタンブル観光の2大ハイライトである、アヤ・ソフィア大聖堂の真横で、トプカプ宮殿の真前、という位置にありながら、そして大勢の観光客が横を通り過ぎていきながら、気に掛ける人は少ないように思います。普段は閉館しているということもあるでしょうけれど。
なんだか、忘れ去られたかのように、ひっそりと佇むその姿は、ビザンティン帝国の栄光とオスマン帝国の栄華を見守ってきた、老貴婦人という風情でもありました。



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# by yokocan21 | 2011-01-24 08:27 | 旅・散歩  

犠牲祭@イズミル パート4

引き続き、イズミル(İzmir)です。(これが最後ですので.....)

イズミルといえば、街の雰囲気も、その街を歩く人々も開放的でモダン。エーゲ海の陽光降り注ぐ明るい街は、どよよーん、と古めかしくコンサバな印象ってないんですよね。
イスタンブルや他の街に比べれば、モスクの数も少ないような。(中心部に限ってのことですけれど)
でも、一部、昔の建物が残っているエリアもあるんです。オスマン帝国時代に建てられたモスクなどが残っています。

イズミルのど真ん中、コナック(Konak)広場のすぐ横のエリア。ケメルアルトゥ(Kemeraltı)という一角があります。
そこは、細い入り組んだ道に日用品や装飾品などの店が建ち並び、横道に入ると、おもちゃや部品などの問屋が並んでいます。その辺りは、1922年の大火事(※注1)から被災を免れたのでしょう、古い建物が結構残っているんです。
そんな、ごちゃごちゃとしたエリアの一角に、オスマン朝時代に建てられたキャラバンサライ(Kervansaray=隊商宿)があります。

外から見ると、こんな感じ。クズラルアース・ハン(Kızlarağası Hanı)です。
犠牲祭@イズミル パート4_f0058691_618333.jpg


このような隊商宿は、トルコの各地に数多く残されているんですけれど、隊商宿という名前で呼ばれてはいるものの、単に宿として利用されていたわけではないんです。
隊商を率いてやって来た商人たちは、宿をとるのと同時に、そこで商いも行います。だいたい、1階部分にはラクダの厩があり、商業をするエリア。2階部分が宿泊エリアです。ですので、厳密には、隊商宿兼商業施設、といったところでしょうか。

このクズラルアース・ハンは、オスマン朝時代の1744年、宦官長であった、ハジ・ベシル・アー(Hacı Beşir Ağa)によって建設されました。
なお、この「宦官長」というのが、「クズラル・アース(Kızlarağası)」という意味です。クズラル・アース=直訳すると「女の子たちの長」。なんでかといいますと、オスマン朝時代の宦官長というのは、ハレム(Harem)のお目付け役でもあったからなのですね。
ちなみに、宦官長は、主に、アフリカから連れてこられた黒人が多かったのも、オスマン時代の特徴です。


2階建ての建物の2階部分から、中庭を眺めて。
小さな窓がいっぱい並んでいるのは、客室の窓です。中庭は、現在はカフェとなっています。
犠牲祭@イズミル パート4_f0058691_6191149.jpg

向こう側のモスクはヒサル・ジャーミィ(Hisar Camii)
16世紀後半(1592年または1598年と言われている)、モッラ・ヤークプ・ベイ(Molla Yakup Bey)により建てられました。



現在、この隊商宿は修復され、お土産屋や絨毯屋、骨董品屋やアクセサリー屋といったお店がいっぱい入っています。
廊下は、こんな感じ。明かり取りの窓があり、規則正しく並べられた屋根の石の様子など、とってもいい雰囲気です。
犠牲祭@イズミル パート4_f0058691_620757.jpg犠牲祭@イズミル パート4_f0058691_6203138.jpg

左は骨董品屋さんが集まるエリア。
右はアクセサリーショップやお土産屋さんの集まるエリア。


2階部分を歩いていて面白いお店を発見。ネイ(Ney)という葦笛の専門店です。
トルコの古典音楽(特にスーフィズム音楽)には欠かせない楽器です。まぁ、一言でネイといっても、様々な長さのものがあるんですね~。
犠牲祭@イズミル パート4_f0058691_6212059.jpg


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

クズラルアース・ハンの横は、こんな小径。 (ちょっと、お兄さんジャマなんですけどぉ~)(笑)

犠牲祭@イズミル パート4_f0058691_622650.jpg細い路地には、お外に小さなテーブルとイス(座面の低い、トルコならではのもの)がいっぱい並べられたカフェがずらりと並んでいます。

そんなカフェの中から、今回は、こちらに座ることにしました。
カフヴェジ・オメル・ウスタ(Kahveci Ömer Usta)』。


犠牲祭@イズミル パート4_f0058691_6225047.jpg犠牲祭@イズミル パート4_f0058691_6231554.jpg

左:サーレップ(Salep)。以前こちらでも紹介したことがあります。
ランの一種の球根の粉末(サーレップという)を、熱々のミルクと一緒に煮たもの。砂糖もたっぷり、甘~くって美味しい冬の飲み物です。シナモンをたっぷりと振りかけて.....ふぅふぅ♪

右:トルココーヒー(Türk Kahvesi)。ただ、普通のトルココーヒーとは、ちょっと違います。これ、カップごと火にかけて煮だしたもの。その名も、そのまんま、“Fincanda pişen kahve”=カップで煮たコーヒー。
この辺りのカフェでは、カップごと煮出したトルココーヒーが有名なんです。

このお店のサイトによりますと、昔、ミマール・スィナン(Mimar Sinan)(※注2)の時代、コンヤ、カラマンからスコピエやサラエヴォへ、モスクやハマム(トルコ風呂)、隊商宿や橋など、石造りの建築工事に駆り出された労働者たちが、作ったことが始まりなんだそうです。暖をとるために燃やした焚火の、残りの灰の中で、カップごとコーヒーを淹れていたらしいのです。
トルココーヒーは、ジェズヴェ(Cezve)という専用の小鍋で淹れるのが普通なんですけれど、作業中の労働者たちは、手っ取り早い方法を生み出したってことですね。



とまぁ、今回遊びに行った(いえ、正確には犠牲祭のための訪問でした)イズミル。
街は、どんどん綺麗になっているし、新しいシッピングモールや大型店もたくさん出来ていて、その発展ぶりは素晴らしいものがありました。
そして、いつもキラキラ・エーゲ海の太陽!これこそが、イズミル!
もっともっと楽しい場所がいっぱいあるんですけれど、限られた時間の中では、これくらいが精一杯。これ以外のものは、またの機会に。


※注1 1922年の大火事・・・・・第一次世界大戦にトルコが敗れると、ギリシャ軍がイズミルを占領します。その後、1922年9月9日、アタテュルク率いるトルコ軍がこの街を奪還するんですが、9月22日、撤退するギリシャ軍が街の中心地に火を付けた、といわれています。火は数日間燃え続け、イズミルの中心地は灰となってしまったのです。なお、広大な焼跡地は、現在、「イズミル・フアー(İzmir Fuarı)」という広大な公園&見本市会場となっています。


※注2 ミマール・スィナン(Mimar Sinan)・・・・・16世紀に活躍した、オスマン帝国最高の建築家。詳しくは、wikipediaをどうぞ。



関連記事をまとめてみました。
犠牲祭@イズミル パート1
犠牲祭@イズミル パート2
犠牲祭@イズミル パート3

もうひとつ、関連記事を。ディヤルバクルの隊商宿・『ハサンパシャ・ハン(Hasan Paşa Hanı)』。


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# by yokocan21 | 2011-01-18 06:28 | 旅・散歩  

犠牲祭@イズミル パート3

昨年の犠牲祭に訪ねたイズミル(İzmir)の続きです。
   (以前の記事は、こちら と こちら です)

なんだか、もうとっくの昔の話のようですけれど、お付き合い下さいませ~。

犠牲祭の連休の間は、ぽかぽか陽気の日が多くって、お散歩やぶらぶら外出にはもってこいでした。そんな晴々したある日、久しぶりに訪ねたのが、この建物。
犠牲祭@イズミル パート3_f0058691_22371254.jpg

これ、エレベーターです。トルコ語でアサンソル(Asansör)

場所は、海岸通りに近いミトハト・パシャ通りと、丘の上のハリル・ルファット地区とを結ぶところ。
イズミルの中心地にほど近い住宅地なんですけれど、その辺りって、急な坂道ばかりで、海岸沿いの通りから上の通りに行くには、さぞ大変。特に、お年寄りや子供、妊婦さん達には生活しにくいもの。
そこで、このイズミルに住むユダヤ系の慈善家、ネシム・レヴィ・バイラクルオール(Nesim Levi Bayraklıoğlu)という方が、この地にエレベーター(アサンソル)を建設しようと思いついたのです。
今からかれこれ100年以上も前、1907年のことです。
なんと、当時としては斬新なことを思いつく方がいらしたのですね。

建設当時は、蒸気機関でモーターを動かしていたようです。


犠牲祭@イズミル パート3_f0058691_22374473.jpgちなみに、この辺の坂道に付けられた、延々と続く階段。

相当に旧勾配なのがわかります。

これ、毎日だと、大変だよなぁ.....。



犠牲祭@イズミル パート3_f0058691_2257343.jpgこちら、アサンソルの近景。

背後の絶壁、見えますかぁ?

イズミルのこの辺りは、海からいきなり山、みたいな地形です。



で、このアサンソルに乗って、すぅ~っと、上まで登ってみますとーーー。
こぉんな絶景がぁ~♪

コナック(Konak)やアルサンジャク(Alsancak)方面を眺める。柵やランプの装飾も素敵! 
ここは展望台にもなっていて、カフェも併設されているので、お天気ばっちりなその日は、大勢の人で賑わっていました。
このカフェ、デートスポットでもあって、いつもカップルでいっぱいです。私たち夫婦も、昔は(!)何度かここにお茶しに来たことがありますよ。
犠牲祭@イズミル パート3_f0058691_2258121.jpg



カフェの内部からの眺め。
この横には、夜だけオープンする、ちょっとオサレなレストランもあって、なかなかいい雰囲気なのです~。
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こちらは、対岸のカルシュヤカ(Karşıyaka)地区を眺める。イズミル湾を、の~んびり船がゆく。
犠牲祭@イズミル パート3_f0058691_2259291.jpg


こういう光景を眺めると、ほぉ、イズミル、いいなぁ~~~って思います。
トルコでも、住んでみたい街の人気上位ランクされいますからねぇ。納得ですよね!



ところで、ここ、アサンソル(エレベーター)本体は言うまでもなく、もう一つ有名なものがあります。

犠牲祭@イズミル パート3_f0058691_22594517.jpgこの方。

ダリオ・モレノ(Dario Moreno)さんです。

地元イズミル出身の、往年のシャンソン歌手です。
50年~60年代にかけて、数々の舞台で歌い、何枚ものレコードを出し、また、ブリジット・バルドーとも共演したり、俳優としても大活躍されていたようです。

一番上の写真、左側にある白壁のおうちに一時住んでいたということで、その小径は「ダリオ・モレノ通り(Dario Moreno Sokağı)」と呼ばれています。



ちょっと参考に、こちら、どうぞ。
イスタンブル・ボスフォラス海峡の素晴らしい景色をバックに、ダリオ・モレノの歌声が冴えわたります。



そうそう、我が美輪明宏さん(当時は丸山明宏でした)のお馴染み・『Me Que Me Que(メケメケ)』は、このダリオ・モレノさんも歌っているようですね。 (メケメケのオリジナルは、ジルベール・ベコー)


※このアサンソル、以前は、乗車料金を払っていたんですけれど、今はタダです。そして、アサンソルの中では、ダリオ・モレノさんの曲かと思われるシャンソンが流れていました。


このアサンソルのある地区には、昔ながらの木造建築も残っていて、散策してみると、なかなか面白いエリアでもあるんです。
犠牲祭@イズミル パート3_f0058691_2302034.jpg

2階の窓部分が外に張り出した形の、オスマン朝時代の建物。
これらは、“ルム・エヴィ(Rum Evi)=ルムの家”と呼ばれています。ルム(Rum)とは、トルコ領在住のギリシャ人、という意味で、当時のギリシャ人達が好んで建てた建築様式なんでしょうね。
(背後の高い建物は後になって建てられた、コンクリート造りのものです)


【追記】 この、2階の窓部分が張り出している様式の木造住宅、コメントでも興味を持って下さる方がいらっしゃいましたので、ちょっと補足をしておきます。

2階の窓が外に張り出した形のものを、ジュンバ(Cumba)というんですけれど、このジュンバの付いたオスマン時代の木造建築は、トルコの古い街では、今もよく残っています。ここイスタンブルでも、旧市街やボスフォラス海峡沿いの古くからの町では、まとまって残っていたり。うちの近所にも、何軒かありますよ。
最近は、そういう伝統的な木造住宅を綺麗に修復し、保存する動きも盛んです。

このような様式の住宅は、一般的には「オスマン時代の家(Osmanlı Evi)」という風に呼ばれています。
ただ、イズミルを含めたエーゲ海地方では、元々ギリシャ人が多かったこともあってか、「ルムの家(Rum Evi)」と呼ばれています。

建築については詳しいわけではないですし、特別に勉強をしたこともないですけれど、私の知っている範囲では、こんな感じです。詳しい方いらっしゃいましたら、ご教授お願いします。

エーゲ海地方の、伝統的な家屋は、こちらでも紹介しています。参考までにどうぞ。



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# by yokocan21 | 2011-01-07 23:03 | 旅・散歩