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歴史の町・アンタクヤ(その1)

イスケンデルン(İskenderun)より南へ約40km。途中、雲のかかった山越えルートを通って、車で30分ほど。
シリア国境まで40kmという、まさに文化融合の地・アンタクヤ(Antakya)へやって来ました。
ここは、随分と昔に訪れたことがあるのですけれど、もう記憶がかすれがちになっていて、細かなところまでは思い出せずにいました。ダンナは、もちろん訪ねたことなんてなかったですので、行ってみなきゃ、ってことでの再訪です。

トルコの地図を見ると、地中海の北東の部分に盲腸のように突き出た部分があるんですけれど、その突き出たところがハタイ(Hatay)県。アンタクヤはハタイ県の県庁所在地です。
ハタイ県の中でも、シリアにかなり近い場所に位置しているということ、また歴史的にもシリアとの関係が深いということで、町の人たちの風貌もどことなくトルコっぽくなくてシリア(アラブ)っぽい。文化面はもちろん、お料理もトルコとアラブの融合~。
これだけでも、何やら面白そうな町、ってことがわかりますよね。

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この写真は、町の中心地、ツーリスト・インフォメーションのあるロータリー。

では、複雑な歴史を辿ってきたアンタクヤの町の概要でも。あまりにも複雑な歴史ですので、ササーッといきます。(って、書くのが大変なだけ(爆!))

アレキサンダー大王の死後、家臣の将軍たちによる覇権争いが激しくなる中で、イプソスの戦いに勝利したセレウコスⅠ世が、紀元前300年にシリア地方のオロンテス川(※注1)沿いに建設した都市が、このアンタクヤです。
父アンティオコスの名に因んで、〝アンティオキア(Antioch)〟と名付けられました。
アンティオキアはセレウコス朝の首都として、ヘレニズム期の代表的な都市として、発展していきます。
紀元前64年には、ローマ帝国に攻め落とされますが、繁栄は続きました。
また、1世紀初頭に表れたキリスト教の布教地として、エルサレムの次にこの地が拠点として選ばれました。聖パウロの布教地として知られています。
キリスト教がローマ帝国に認められてからは、アンティオキア教会(※注2)が、五大総主教座(※注3)の一つとして栄えました。
1世紀当時、ローマ帝国内では、ローマ、アレクサンドリアに次ぐ第3の都市だったのだそうです。

6世紀初頭に大地震にみまわれ、町は壊滅的なダメージを受けます。町は再建されますが、ササン朝ペルシャに攻撃され、また638年には、当時治めていたビザンティン帝国がイスラム軍に破れ、町は徐々に衰退の一途をたどります。
969年にビザンティン帝国に一時支配されますが、1084年にはセルジューク朝の支配下となります。
その後、1096年には第一次十字軍に征服され、〝アンティオキア公国〟が建ちます。
1268年にはマムルーク朝に支配され、1516年にはオスマン朝の支配下となります。

そして、第一次世界大戦後の1918年、この地はフランスの統治下となり1938年までの間は、フランス領シリアの一部として統治されていました。
そして、1939年6月29日、トルコ共和国へと編入されました、というくだりは、イスケンデルンの歴史と同じです。

なお、現在の町は、7番目の層の上に成り立っているものだそうで、町があまりにも古過ぎて、掘り起こそうものなら、もの凄い物が出てきそうですね。

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それでは、アンタクヤの町を見て周ります。見どころが多いですので、今回は、聖堂(教会)を中心に。

旧市街の一角にる、正教会の聖堂(Ortodoks Kilisesi)。またの名を、『ペテロ&パウロ聖堂(Aziz Piyer Ve Aziz Paul kilisesi)』。アンティオキア教会の聖堂です。
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1860年代の建立と、この町の歴史の中では新しい建物。1872年の地震で大きな被害を被り、修復作業は1900年になってようやく終了したそうです。

私が訪ねた日は、年に1回行われる重要なミサのある前日とあって、教会の中庭には綺麗に飾られたイスがたくさん並べられていました。その日の夜に、コンサートが開かれるとのことでした。
案内下さった教会の方から、そのコンサートに招待頂いたんですけれど、子供もいることだし、夜遅くなってしまうし、でお断りしました。あぁ、どんなコンサートだったのでしょう.....。ちょっと残念。

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普段は鍵がかかっていて、お祈りの時間以外は入れてもらえないのだそうですけれど、特別に中を見せて下さいました。
厳かな空間です。いかにも正教会らしい内装。右の写真、聖人の肖像画が並んでいます。十字架がとっても豪華で、繊細な飾りに目が釘付け!

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こちらは、↑の教会近くの小径。

昔ながらの古い家屋がたくさん残っています。中には、今にも崩れそうなもののありましたけれど、丁寧に使っている感じがしました。2階部分が1階部分よりも張り出している独特の建築様式は、オスマン朝時代の建物によく見られるものです。
ここアンタクヤも、夏は相当に暑い町ですので、窓には鎧戸が付けられていたり。

次に紹介しますのは、ものすごーく古い聖堂。
アンタクヤの町の郊外の岩山の中にある洞窟聖堂です。

歴史の町・アンタクヤ(その1)_f0058691_6173670.jpgまず、こちらの岩山。この岩山の中にその教会はあります。

聖ペテロ聖堂(St. Piyer Kilisesi)です。

ここは、アンタクヤに初めてキリスト教が伝えられた時期に建てられたもので、聖ペテロが初めて説教をし、キリスト教コミュニティーを作った聖堂です。(おそらく、1世紀初頭)
使徒行伝によれば、〝クリスチャン〟(=ハリスティアニン「キリスト愛好者」という意味)の言葉が最初に用いられたのが、この聖堂のある場所なんだだそうです。

十字軍の時代には拡張工事がなされ、そして1863年にはローマ法王・ピウスⅣ世によって修復工事がなされ、この工事にはナポレオンⅢ世も協力をした、ということです。

ただ現在、この聖堂は大規模な修復中で、立入り禁止なのです。(あぁ、残念!)
上から岩が落下してきたりと、かなり危険な状態なのだそうです。(今年中には修復は終わるそうですけれど)
中には、ローマ帝国、ビザンティン帝国時代のモザイク画が残されているそうです。
写真、右側の壁の向こう側に聖堂はあります。

聖堂そのものを見ることが出来なかったので、正教会聖堂で頂いた絵葉書を載せておきます。
こんな感じなのです。ちなみに、幅:9.5m、奥行き:13m、高さ:7mの小さな教会。
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また、この聖堂では、ペテロの聖名祝日に合わせて、毎年6月29日には、世界中から信徒が集まりミサが行われているんですけれど、今年は修復工事中のため、正教会聖堂(聖ペテロ・聖パウロ聖堂)で行われました。 ↑で書きました重要なミサ、とはこのことだったのです。
そして、1983年にはローマ法王・ヨハネ・パウロⅡ世によって聖地に指定され、6月のミサにはバチカンからも聖職者が出席しているということです。

おそらくキリストの死後まもなく建てられたのでしょう、この聖堂。現在までの間の長~い歴史を色々と見てきたんでしょうね。この辺りは特に支配者がころころと変わった場所ですし、聖堂の存在そのものも危うい時期もあったでしょう。それでも、連綿と活動を続けてこられたという事実。
凄いです!ちょっと感動~。


こちらは、この聖堂の前から見たアンタクヤ郊外。
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聖堂の側に咲いていた花。アザミでしょうか。
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※注1. オロンテス川・・・トルコ語では、「アスィ川(Asi Nehri)」。レバノンのベッカー高原に発する川。シリアを南から北へと流れ、途中には世界最古のダムと言われている「ホムス湖」がある。アンタクヤを通った後は地中海へと注ぐ。

※注2. アンティオキア教会・・・古代の五つの総主教座の一つ。現在は東方正教会(アンティオキア総主教庁)およびシリア正教会が総主教座を置いている。なお、現在の所在地は、シリアのダマスカス。
古代キリスト教教会のなかでも、最も古いものの一つ。初代総主教は使徒ペテロ。

※注3. 五大総主教座・・・ローマ、コンスタンティノポリス、アレクサンドリア、エルサレム、そしてアンティオキア


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by yokocan21 | 2008-10-28 06:26 | 旅・散歩  

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