シャンルウルファ・聖なる伝説の町を歩く

もう随分と前のことになってしまいましたけれど(1ヵ月も前!)ガズィアンテップ紀行(※)を綴っておりました。今回は、その続き。シャンルウルファ(Şanlıurfa)紀行です~。
ちなみに私は、遠い昔にこの町を訪れていまして、今回は2回目です。

シャンルウルファ、トルコでは単に『ウルファ(Urfa)』と呼ばれています。
『シャンル(Şanlı)=〝名誉ある〟の意』が付けられたのは、トルコ共和国になってからのことで、1920年の祖国解放戦争で、フランス軍から町を守りきったこの町の人々を称えて『シャンル』という称号を与えられたということです。
前に紹介しています、ガズィアンテップの『ガズィ=イスラム戦士』も、これと同じ流れですね。

なお、『ウルファ』という名は、シュリヤーニ語での〝ウルハイ〟、またはアラブ語での〝エルルハ〟から派生したものなのだそうです。

前置きはこのへんにしておきまして、っと。

ガズィアンテップより東へ一直線、150km。途中ユーフラテス川を渡り、ウルファの町へ。ユーフラテス川の手前までは高速道路がついていますので、意外と早く到着です。(ちなみにディヤルバクルからだと、180km)。

ウルファも、南東部の町ならではの、とっても歴史が古く、そして多彩な歴史を持つ町です。
この町が町として形成されたのは、紀元前2000年にも遡るようです。フルリ人のミタンニ王国の主要都市として栄えました。その時の名は〝ワシュガン〟。そして、アッシリア帝国の支配の後、紀元前7世紀以降はメディア王国、続いてペルシャ帝国(アケメネス朝)の支配下に入ります。
その後、紀元前333年にはアレキサンダー大王の支配を受けますが、この時の将軍であったセレウコスⅠ世によって、この町の名を、マケドニア王国の首都であった〝エデッサ(Edessa)〟と同名に変えられました。
その後は、ローマ帝国、続くビザンティン帝国に支配され、キリスト教世界の中心地として、また文化・産業の中心地として大いに繁栄します。

640年にはアラブ軍が侵攻してきますが、その後また、1030年~1087年の間はビザンティン帝国時代が続きます。1087年からの暫くの間はセルジューク朝の支配下になります。
1098年には、第一回十字軍の侵攻を受け、エデッサの町は焼き払われ、崩壊します。そして、フランスの伯爵・ブーローニュのボードゥアンに町が支配されると、〝エデッサ伯国 〟が建てられました。
しかし、1144年には、モスルの太守・ザンギーがこの町を十字軍から解放、そして占領するようになり、1182年にはサラーフッディーン(サラディン)のアイユーブ朝の支配下に入ります。

その後、1244年にはモンゴル軍、1393年にはティムール軍に攻められ、1540年にはカラコユンル朝(黒羊朝)、その後はアクコユンル朝(白羊朝)、サファヴィー朝などの支配を受け、町は過去の栄光を取り戻せないまま、1516年にはオスマン朝の支配下となり、現在に至ります。

ということで、歴史の話になると、ついつい長くなってしまいます。この辺の歴史、たまらなく好きなもので~。

では、町をちょこちょこっと歩いてみましょう。
今回は、「聖なる伝説の町」ということで、この町に伝わる伝説を交えながら紹介していきます。

f0058691_857797.jpgまず、ここを見ずしてウルファは語れない、と言われている、預言者・イブラヒム(アブラハム)誕生の地
入り口奥にある岩の洞窟が、イブラヒム誕生の地といわれています。

私も、スカーフを被って入ってきましたけれど、湧き水が滴り落ちている薄暗い洞窟で、信仰心がなければ何の有り難味も感じられないものでした.....。
敬虔な人たちは、感動のあまり涙ぐんでおられたり。

この洞窟内の湧き水は、病を治してくれると信じられているそうです。


うーむ。でも、イブラヒム(旧約聖書では、アブラハム)って、一般的には、現在のイラク・ウルの町で生まれた、ということになっていませんか。
それがどうして、ウルファのこの洞窟だと、言い伝えられているんでしょうか。イスラム教の伝説、だと言ってしまえばそれだけのことなんですけれど。

f0058691_8575851.jpgこちらは、イブラヒム誕生の洞窟の横にあるモスク、メヴリディ・ハリル・ジャーミィ(Mevlid-i Halil Camii)

洞窟は、このモスクの中庭の一部になっています。建立は、オスマン朝時代。

このミナレット(尖塔)、ちょっと太めで先端がとんがっていないところが、何ともこの地方らしいです。


f0058691_85993.jpgオスマン朝時代、イブラヒムに敬意を表しこのモスクを建てたのですけれど、巡礼者が後を絶たず、モスクの外にも参拝者が溢れるようになりましたので、1986年、その横に、2本のミナレット(尖塔)を持つ大きなモスクを新たに建造したということです。
それが、こちら(←)のモスク。
このどちらもメヴリディ・ハリル・ジャーミィ。

こちらのモスクは、典型的オスマン朝様式ですね。



こちらは、ルズワニイェ・ジャーミィ(Rızvaniye Camii)バルックル・ギョル(Balıklı Gölü)といわれる魚のいる池。
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ルズワニイェ・ジャーミィは、1716年の建立。

バルックル・ギョルには、言い伝えがあります。
イブラヒムは、時の暴君・領主ネムルートや民衆が崇拝する偶像を嫌い、次々とそれらを破壊していきました。
一神のみを崇拝するものだと主張するイブラヒムに、領主ネムルートは怒り、今の城のある高台から、炎の中へと突き落としますが、あら不思議!炎は水に、薪は魚(鯉)に変わったのでした。イブラヒムは怪我ひとつせず、バラ園に着地したということです。
そして、イブラヒムの落ちたところが、このバルックル・ギョルなのです。
池には、ものすごくたくさんの魚がいて、餌をあげることも出来ます。すかさず声をかけてくる「餌屋さん」が餌を売っていますよ。

伝説では、領主ネムルートの娘・ゼリハは、イブラヒムの主張を信じ、自ら後を追って炎の中へと飛び込んでいったということです。そして、ゼリハの落ちた場所には、アイン・ゼリハ池(Ayn Zeliha Gölü)があり、こちらの池にもたくさんの魚が泳いでいます。(↓の写真がそれ)
〝アイン・ゼリハ〟とは、アラブ語で〝ゼリハの泉〟という意味だそうです。
アイン・ゼリハ池では、小さなボートがあり、ゆーったりとボートに乗ったりも出来ます。池の周りには、屋外喫茶店(チャイ・バフチェシ)があり、木陰で寛ぐのもよさそうです。
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この2つの池の魚はとっても神聖なものであるため、もちろん捕ってはいけないし、食べてもいけないんです。

ルズワニイェ・ジャーミィの、バルックル・ギョル(魚の池)を挟んで向かい側にあるのが、ハリルル・ラフマン・ジャーミィ(Halil-Ür Rahman Camii)
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このモスクは、イブラヒムが炎の中へと突き落とされたその場所にあります。
キュリイェ(külliye)と呼ばれる、モスクを中心とした教育機関の様式のものです。
アイユーブ朝時代の1211年の建立で、ビザンティン時代の、聖マリア教会(Meryem Ana Kilisesi)の上に建てられたものだそうです。

このミナレット、いわゆるミナレット型ではなく、どう見ても教会の鐘楼にしか見えませんよねぇ。
教会とモスクの融合、ここにもありました~。

バルックル・ギョル(魚の池)はこのモスクの名にちなんで、〝ハリルル・ラフマン・ギョル〟とも言われています。

そして、旧市街のランドマーク、ウルファ城(Urfa Kalesi)
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アッバース朝時代の814年、元あった要塞を改修し、築かれたもの。要塞の基礎が造られたのは3世紀だそうです。
コリント様式の石柱の碑文には、シュリヤーニ語でエデッサ伯国のことが書かれてあるようです。
頂上までは登れるんですけれど(遠い昔に来た時は、登りました~)、今回は時間がなくヤメ。

これで、ウルファ第一回目・「聖なる伝説の町」編を終わります。さすがに聖なる町と言われているだけあって、伝説をあちこちで聞きますし、町(旧市街)のそこここにモスクを見かけます。そのモスクがどれもとても個性的で、しかも歴史のあるもので、モスク好きには、たまらないのでしたぁ。
この地方独特の様式で建てられたモスクは、また日を改めて紹介していきたいと思います。
聖なる伝説に彩られた歴史ある町・ウルファ、次回は町の雑踏の中をブラブラと歩いてみましょう。


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by yokocan21 | 2007-11-17 09:21 | 旅・散歩  

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