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ハサンケイフ紀行・続編

ハサンケイフ(Hasankeyf)第2弾です。

この辺りには、5000とも6000ともいわれる洞窟があり、古代より人々がそこで生活してきました。そして、この洞窟での生活は延々と続き、ほんの30年ほど前まで住居として使われていたそうです。
1970年代、当時の政府が危険だからと住民を強制的に麓へと移住させたそうです。現在は、コンクリート造りの普通の家に住んでいます。〝夏は涼しく冬は暖かい〟洞窟での生活を懐かしむ人が少なくない、とのことです。

岩山に彫られたたくさんの洞窟住居跡。現在の町は、この岩山の向こう側です。
これらの洞窟、一時期はイスラム教徒に迫害されたキリスト教徒の隠れ家になっていたこともあるそうです。カッパドキアの洞窟住居と様相が似ていますね。
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ハサンケイフ紀行・続編_f0058691_7354434.jpgこちら、険しい岩山に作られた城塞
城塞の右手にはティグリス川が流れています。頂上付近にある小さな窓は、小宮殿の窓。


この城塞にも無数の洞窟があり、紀元前何十世紀も前から住居として使われてきました。
町としての作りが出来上がったのは、いつ頃なのかは不明。
363年にビザンチン帝国がこの岩山を頑丈な城塞として築き上げました。
その城塞をより強固なものとし、城門を付け加えたのがアルトゥク朝です。
城塞の中には2つの秘密の階段があり、その内のひとつは、岩が崩壊した際に表に現れてきたそうです。
アルトゥク朝時代、その後のアイユーブ朝時代も、城塞内に水を汲み上げ池に貯めていたようです。

ハサンケイフ紀行・続編_f0058691_737157.jpg城塞に登るには、入り口で入場料を払って入ります。
どこからか男の子がやって来て、私たちのガイドをしてくれると言いました。
感じのいい素朴な少年で、聞くと地元の高校生だそうです。ちゃんとガイドの免許も持っているとのことですので、では、と案内してもらうことにしました。

(写真は、城塞の入り口。大手門。)


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城塞内には、アルトゥク朝の大宮殿と小宮殿、数え切れない程の洞窟住居、お墓や霊廟、それにアイユーブ朝時代のウル・ジャーミィ(大モスク)などが点在しています。
それでは、これからこの城塞の様子を紹介いたします。

(写真は、城塞より町の奥を撮ったものです)


城塞のてっぺん付近にある、アルトゥク朝時代の小宮殿跡
元々は礼拝場だったところに、マルディンからお后を迎えるにあたって宮殿を造ったもの。
以前は、中まで入って、小窓から眼下に広がる町の様子やティグリス川を眺められたようなのですけれど、保存状態の悪化で、今は立入り禁止。
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城塞より眺めた
向こう側のは現在の橋。もちろん車も通れる大きな橋です。
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ここで、前回書き忘れたので補足します。
この橋は、当時は跳ね橋だったそうで、跳ね橋としては世界で初めてのものだったそうです。
ま、世界初かどうかは信憑性に欠けますけれど、12世紀に、それだけの技術があったということは確かなことですよね。当時のイスラム世界の技術がいかに高かったか、ということですね。

頂上付近を散歩していると、突然にわか雨が降ってきました。
雨宿りには困りません!なんてったって無数の洞窟がゴロゴロしていますから~。近くにあった洞窟に逃げ込むことにしました。

で、駆け込んだ洞窟が、なぁんと教会跡だったんです。
(ガイド君が、それと知りつつここを指示してくれたようですね。感謝!)
内部には、ちゃんと十字架も彫られていましたし、かなり状態は悪かったですけれど様々なレリーフもありました。
そして、同じ洞窟中に、この教会と隣同士にモスクがありました。おぉっ、キリスト教とイスラム教の同居ですね!

これは、その洞窟の入り口にあったレリーフ。アラブ文字でコーランの一節が彫られています。
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その洞窟の窓から見た、アルトゥク朝時代の大宮殿跡
断崖絶壁の上に建てられた、難攻不落の宮殿。

雨が降って地面がびしょびしょになってしまい、あの大宮殿まで行くのは辞めにしました。
そして大宮殿のそのまた奥(もっと高い所)には、アイユーブ朝時代のウル・ジャーミィ(大モスク)があるそうなんですけれど、かなり朽ち果てているそうですし、そこもパスしました。


ちなみに、ここでよく出てくるアルトゥク朝とは、11世紀から15世紀にかけてこの地方一体を支配したトルコ系(トゥルクマン)の王朝です。

ようやく雨も上がり、麓に下りてきてちょっと休憩。
ティグリス川河畔には、木製の川床が造られていて、そこで魚料理やケバブなどを食べることが出来るんですけれど、私たちはお昼を食べてしまった後でしたので、その反対側にある洞窟を改装したカフェでティータイム。
(洞窟カフェの様子、何故か写真なしです)

川床の辺りから見た、ティグリス川対岸。
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右側の四角い建物は、ハマム(トルコ風呂)。
左側のはゼイネル・ベイ霊廟(Zeynel Bey Türbesi)。15世紀のアクコユンル朝(白羊朝)時代のもの。
近くまで行って見たかったんですけれど、うちの幼稚園児が「もう帰ろう~」と退屈してしまったので、諦め、次の町へ向けて出発しました。小さな子供には、何が何だかわけがわからないですものね、仕方がないです。

小旅行は、まだまだ続きます。


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★ダムに沈んでしまうかもしれないハサンケイフ

このハサンケイフの町の下流には、大規模なダム(ウルス(Ilısu)・ダム)の建設計画が持ち上がっています。このダムは水力発電も出来る、大規模ダム。
かれこれ20年ほども前から、計画が持ち上がっては消え、また現実味を帯びたかと思えば立ち消え、を繰り返してきているらしいのですけれど、ここに来てまた計画が現実味を帯びているんです。

何年か前から、専門家による発掘調査もしており、文化遺跡の移転計画などもあったり、また昨年には新しい国際借款も得たということです。ダム建設はどうも避けられない様相を見せています。

そのダムが完成してしまうと、ハサンケイフの町は勿論、周辺の町や村もすっぽりとダムの底に沈んでしまうことになります。強制移住させられる人達は、6万人ともいわれています。
前回の記事に載せてますエル・ルズク・モスクのミナレット(尖塔)、チフト・メルディヴェンリ・ミナーレの2/3が水の中に沈んでしまうらしいんです。

これに対して、地元の人達を始めたくさんの人達が、反対運動をしています。
「たった50年しか耐久年数のないダムのために、何千年もの歴史のある町を沈めてしまっていいものなのか」という横断幕を掲げて反対運動をしている地元の人たちの写真が、先月の新聞に載ったばかりです。

洞窟から麓の住居へ強制移住させられた人達が、今度はダム建設のためによその土地へ強制移住させられることになります。
水の確保も電気の供給も大切ですけれど、人々の暮らしや歴史遺産も大切。何とかならないものなんでしょうか。
ちなみに、ハサンケイフは1978年に、歴史・文化遺跡に指定されています。

トルコでは、新しいところでは、1990年代に作られたトルコ最大のダム、アタトゥルクダムの建設のために5万人の人達が移住させられました。
そして、1990年代後半には、ローマ時代の遺跡「ゼウグマ(Zeugma)」と付近の家々がビレジクダムの底に沈みました。
ゼウグマ遺跡の主なものは近くの町、ガズィアンテップの考古学博物館に移転しています。


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《関連記事》 ハサンケイフ紀行・前編

by yokocan21 | 2007-05-30 08:06 | 旅・散歩  

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