母の日と修復中のモスク
これ、先日の『母の日』のプレゼント。From ダンナ。
いつも母の日は、子供がカードや絵をプレゼントしてくれる程度で何も無しなんですけれど、今年は何を思ったか、こぉんなに素敵な
「何となくお花をプレゼントしたい気持ちになったから.....」とダンナは言ってますけれど、根性悪い私は、「ふふーーん、バレンタインの償いね、ぐっふふ」と裏読み。今年のバレンタインは、いつものように花束のプレゼントではなく、ケバブ屋さんでお食事だったんですよね。
ケバブは私の希望でもあったんですけれど、ダンナ的にはやっぱりお花を贈らないと気が済まなかったのか。可愛く素直に喜んでいればいいものを、アマノジャクな性格がどうも災いします。(笑)いや、素直に嬉しいんですよ、本当は、ふふっ。
で、こちらは、子供からのプレゼント。学校の図工の時間に作ったという、カードとネックレス。
カードには、私の好きな「恐竜」のシールが貼られています。(カードの左上にあり。右側にそのUP)
実は、スペル間違いもあるんですねぇ。急いでいてついつい.....なんて言い訳してましたけれど。ネックレスは、先週学校で行われた「縁日(Kermes)」で買ってきてくれたのだそうです。
ちゃんとラッピングもされていて、嬉しいですね~♪
今年は、嬉しいサプライズで、ちょっとウルウルな母の日でした!
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で、ここからが本題です。
その母の日の前日、久しぶりに旧市街の方へ行って来ました。
ファーティフ(Fatih)という、昔ながらの風情を残す古い地区です。
まずは、この立派な水道橋。
日本では『ヴァレンス水道橋』と呼ばれているんですけれど、トルコでは『ボズドーアン・ケメリ(Bozdoğan Kemeri)』。訳して「灰色の鷹のアーチ」。
旧市街の大通りをまたぐように架かっています。
この水道橋は、イスタンブルがローマ帝国の領土であった時代(当時の街の名はコンスタンティノポリス)の378年に、ウァレンス帝が完成させたものです。
その後もビザンティン帝国・オスマン帝国の時代も、修復をしながら引き続き使用されました。
ローマ帝国・ビザンティン帝国時代には、郊外の森から水を引いてきていたようですけれど、オスマン帝国時代になると、もっと郊外の森から水の供給がされていたようです。
こちらは、スルタン・メフメット2世のモスク。『ファーティフ・ジャーミィ(Fatih Camii) 』。
現在、イスタンブルの歴史あるモスクの多くは修復作業がなされていまして、こちらも例に漏れず。もしかして...と思って訪ねてみたら、やっぱりそうでした。
建物をグルリと幕で覆われていますので、概要は全くつかめませんよね。参考にこちらをご覧下さい。
また、内部も修復の足場が所狭しと建てられていましたので、撮影は無理でした。ここは修復が終わり次第、また訪ねてみないと。
スルタン・メフメット2世(Sultan Ⅱ. Mehmed)。
このイスタンブルの歴史を語るにははずせない人物です。即位2年後にして、時のビザンティン帝国の華やかし都・コンスタンティノープルを陥落させた、栄えあるスルタンです。
1453年5月29日、この悠久の都は1000年以上も続いた主とお別れ、新しい主を迎えることとなったのです。
当時、スルタンは若干21歳。インテリジェンス溢れる創造力と統率力、それに寛容性をも持ち得た君主だったようです。また、メフメト2世は別名、『征服者スルタン・メフメト(Fatih Sultan Mehmed)』とも呼ばれていて、トルコではこちらの呼び名の方が一般的です。
このコンスタンティノープル陥落の件、そしてスルタン・メフメット2世の人柄などは、塩野七生さんの著書『コンスタンティノープルの陥落』で詳しく描かれています。
なお、画像は二つ共、wikipediaより拝借しました。
ファーティフ・ジャーミィは、ビザンティン帝国時代に教会があった場所に、征服者(ファーティフ・Fatih)メフメト2世が1463~1470年にかけて建立したモスクです。
ところが、1766年の大地震で大きな被害を受け、1771年にムスタファ3世によって再建されました。ですので、現在の建物は建設当時のものではなく、オリジナルに忠実に再現された建物ということです。
モスクの敷地内にある、お墓。糸杉の林の中に、高貴な方々のお墓が集まっています。
メフメト2世の霊廟(Türbe)。
お墓に隣接して建っています。
敬虔な信者の多いファーティフ地区ということもあって、中はものすごい混雑でした。
流石にメフメト2世の霊廟だけあって、すごーく豪華な装飾でした。
あまりにもの人で、迷惑になるんで写真は撮らず。
この霊廟の向かいには、奥方のギュルバハル・ハトゥン(Gülbahar Hatun)の霊廟がありました。
ギュルバハル・ハトゥンは、次代のスルタン・バヤズィット2世の母后でもあります。
オスマン帝国では、数あるスルタンの妻の内、産んだ息子がスルタンになれば、その母は「ワーリデ・スルタン(=スルタンの母后)」として称えられます。
帝国の中期以降は、ワーリデ・スルタンが絶大なる権力を持つ事になり、国を動かす絶対的な存在として君臨することになるんです。が、メフメト2世の時代には、まだそういう風潮はなかったのか、ギュルバハル・ハトゥンの霊廟は、いたってシンプルなものでした。
こちらもまた、修復中。『ゼイレッキ・ジャーミィ(Zeyrek Camii)』。
元は、ビザンティン帝国時代に建てられた、『クリスト・パントクラトル教会(Christ Pantocrator Kilisesi)』。1118~1124年に建てられた、聖堂と礼拝堂からなる教会です。
ここは、イスタンブルを征服後、初めて神学校(Medrese)が置かれた場所でもあります。その後、神学校はファーティフ・ジャーミィの中のキュルリイェ(Külliye)(※)に移転したため閉鎖され、モスクとして使用されました。
建物の横から。
ビザンティン建築らしいドームや窓が見えます。
赤レンガを使っているところも、ビザンティンらしいですね。
イスタンブルには、オスマン帝国時代にモスクに替えられたビザンティン教会が多く残っています。
それらも色々と紹介してみたいですねぇ。
また、このゼイレッキの辺りには、古い木造住宅が多く残されていて、その殆どは朽ちてしまっているんですけれど、中には綺麗に修復して使われているものもあって、なかなかに情緒のある界隈でもあるんです。
それら木造住宅も、真骨頂というべき地区がありますので、機会があれば紹介してみたいです。
修復中の建物ばかり載せてしまって申しわけないです。
イスタンブルは、来年2010年に〝欧州文化首都〟に選ばれていますので、急ピッチであちこちを手直ししている最中なんです。
観光に来られる方、その辺はご承知の上でお越しくださいね。
※キュルリイェ(Külliye)・・・・・モスク内または隣接して作られた、神学校・救貧所・病院・隊商宿・ハマム・図書館・霊廟などが集まる総合施設。
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by yokocan21 | 2009-05-14 18:30 | 普段生活