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マイケル・ジャクソンの一周忌?

昨日、ちょっと面白いニュースを観ましたので、そのことを。
場所は、南東部地方・マルディン(Mardin)県のミディヤット(Midyat)市に属するある村。
昨年、6月26日に亡くなったマイケル・ジャクソンの一周忌を行ったというものです。

その村は、トルコ語でMıhellemiler=ムヘルレミ人と呼ばれる人達の村で、そのムヘルレミ人が、昨年のマイケル・ジャクソンの不在葬式に続いて、今年は一周忌を弔いました。
この儀式は一週間続き、マイケル・ジャクソンのコンサート風景などを映し出したり、ムーンウォークの写真をプリントしたTシャツを配ったりしました。また、若者達による歌謡ショウも行われました。
最終日には、メヴリット(Mevlit)(※)という、ムハンマド誕生の一節を詠み上げました。メヴリットは、ムヘルレミ人の言語であるムヘルレミ語をはじめ、トルコ語・クルド語・アラブ語・英語の五言語で詠まれました。
そして、山羊三匹、羊5匹が生贄として捧げられ、郷土料理と共に来客に振舞われました。
儀式には、村人約1000人が集まったそうです。


と、このような内容のニュースです。
私はあるTVのニュースで観たんですけれど、後で調べてみると、新聞でも配信されていました。

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この行事、その村人達がマイケル・ジャクソンのファンだから、、、なんていう理由で行ったものではないんですよ。なんと、マイケル・ジャクソンは〝ムヘルレミ人の婿〟だからなのだそうです~!
以前結婚していた「リサ・マリー・プレスリー」の婿ということです。
ニュースでは、リサ・マリー・プレスリー、すなわち父親である「エルヴィス・プレスリー」は、ムヘルレミ人の血を引いているのだとか。(えぇぇぇ~っ)
ま、昨年の不在葬式に続き、今年は一周忌の儀式を大々的にやっているわけですから、ハッタリではないんでしょうね。
いやぁ、ビックリ!

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びっくりしたのは、この「エルヴィス・プレスリー=ムヘルレミ人の末裔」説と、もう一つ。
「ムヘルレミ人」なんて少数民族の存在です。私、初めて聞きました。(うちのダンナも知らなかったそうです)
トルコ語で「Mıhellemiler」といいますので、私は勝手に「ムヘルレミ人」と書いていますけれど、実際、日本語で何というのか知りません。ご存知の方、是非教えて下さいませ。

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このムヘルレミ人は、メソポタミアの地に、3000年以上も昔から住んでいる人達なのだそうです。紀元前1050年頃、ヒッタイトが衰退を始めると、アラブ方面から今のメソポタミアの地に移ってきたそうです。
トルコでは、〝トゥル・アブディン(Tur Abdin)〟と呼ばれる地域に多く住んでいるようです。(トゥル・アブディンとは、マルディンから東の方面に、シリアやイラク国境に沿ってティグリス川までの間の丘陵地帯・山間の地域のこと)
現在、ムヘルレミ人は、トルコ語とクルド語を主に話し、少数ながらシュリヤーニ語(現代アッシリア語)を話す人もいるようです。
文化的には、同じ地域での居住者であるクルド人やシュリヤーニ人(シリア人、または現代アッシリア人)と共通のものが殆どだそうで、それらの民族とは遥か昔から隣人として仲良くやってきているのだそうです。
また、ムヘルレミ人の殆どはイスラム教徒だそうで、たまにキリスト教徒やユダヤ教徒がいるようです。ただ、16世紀頃までは、キリスト教(シリア正教)を信仰していたようです。

ムヘルレミ人、気になり出したら止まりません。彼らを自己紹介したサイトも発見。こちらです

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メソポタミアといえば、歴史の宝庫でもあり、また、遥か昔から色んな少数民族が隣り合わせに暮らしてきている地域でもあるんですね。
うわぁ、面白いことを知りました! んもう、トルコ。奥深いったら、ありゃしない!



※ メヴリット(Mevlit)・・・・・特別な行事(例えば:割礼、法事、メッカ巡礼からの帰国)や、宗教的な行事のときに詠まれる詩。ムハンマドの誕生のことを表したもの。


※ 画像は、全て〝Hurriyet〟より拝借しました。
上から、
・メヴリットを詠む人達。
・ミディヤットならではの建物をバックに、参加者達。子供や若者はお揃いのマイケル・ジャクソンのTシャツを着ています。そして、手前は生贄の山羊を屠るところ。
・村のおばさんの煮物作り。大鍋でぐつぐつ、何が煮えているんでしょう。
・皆で集まってのお食事の光景。トルコの田舎では、床にキリムや大きな布を敷いて、その上で食事をすることがよくあります。


   私が直接体験したことではないけれど、一応、「旅行・南東部」のタグを付けておきます。


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by yokocan21 | 2010-07-06 06:31 | トルコのこと  

南東部の広大な風景

6月末に、遥かイスタンブルを目指し、ディヤルバクルを出発して延々と車で1400km。
6月末とはいえ、トルコ南東部地方は既に夏真っ盛り。灼熱の太陽がガンガン照るつける暑さでした。でもそんな中、道の途中にある素敵な町々を訪ねてきました。
私にとっては随分と以前に訪れたことのある町々で、すごく懐かしくもあって、感慨深い旅となりました。それらの町は、ダンナにとっては初めて訪ねる場所で、前からずっと行ってみたいと思っていた所。
思い出話を聞かせたり(半ば強引に)、新しい発見をしたり、暑さに負けず楽しい旅となりました。
そして、行く先々では、もちろん美味しいものも鱈腹食べて~。
5日間かけての、長距離走破でした。
ちょっと疲れましたけれど、はぁ楽しかった♪

その旅の様子を、数回に分けて紹介していきたいと思います。
で、今日は、序章ということで、走り抜けてきた南東部地方で見かけた風景をちょこっと。

まず、これはどの辺りだったでしょうか。ディヤルバクルからシャンルウルファ(Şanlıurfa)へ向かう途中だったか。ひたすらどこまでも続く大平原。
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春には広大な小麦畑となるこの一帯。夏の間はこのような乾いた土地となってしまいます。
今年は、冬から春にかけての雨が少なかったせいで、小麦の収穫が例年よりはるかに少なかったそうです。トルコの水不足、農業に従事する人たちの話を伺うと、切実なものがあります。
南東部地方は大規模な感慨事業(GAP)があるにもかかわらず、主要の小麦が不作となると、かなり痛いんではないでしょうか。世界的に小麦の価格が上がっている昨今、トルコの小麦も上昇の道を歩んでいます。

こちらは、ガズィアンテップ(Gaziantep)郊外のどこまでも続くピスタチオ畑
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ガズィアンテップは、以前の記事でも紹介しましたけれど(こちら)、ピスタチオの一大生産地なんです。
郊外の高速道路を走っていると、一面のピスタチオ畑に感動します。この町の有名なお菓子・バクラヴァにもふんだんにピスタチオが使われていますし、とにかくお菓子というお菓子にはピスタチオ!
ピスタチオ好きにはたまらない町なんですよね。
ちなみに、トルコ語でピスタチオのことを、〝アンテップ・フストゥーウ(antepfıstığı)〟。もちろん、この町・ガズィアンテップにちなんで付けられています。

ピスタチオの実のUP。
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夏の時期でしたので、実はまだピンク色でしたけれど、これが秋が近づいてくると、だんだんと赤みが増してきてもっと大きな実になります。で、収穫時期の実は、濃いピンク色です。
昔、秋にガズィアンテップを訪れた時には、このピンク色の実をそのまま売っているのをよく見かけました。ピンク色の実は柔らかいので、すぐに剥がせて中の実を取り出して食べるんです。新鮮な実はちょっと苦味があって食べにくかったですけれど、地元の人たちに言わせると、それがとっても美味しい~んだそうです。

余談ですけれど、トルコのピスタチオ生産量は、イラン・アメリカに次いで世界第3位なんだそうです。

こちらもガズィアンテップ郊外。オリーブ畑です。
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オリーブといえば、トルコではエーゲ海やマルマラ海南岸が主な生産地なんですけれど、この辺りでもかなり栽培されているようです。
(高速道路を走る車から撮ったものなので、写真、ちょっとぶれてます)
こちらも余談で、トルコのオリーブの生産量は、スペイン・イタリア・ギリシャに次いで世界第4位だそうです。
結構な生産量を誇っているんですけれど、日本ではあまり流通していない感じ。トルコのオリーブもとっても美味しいんで、どんどん日本でも紹介して欲しいところです。

これは、ウルファに近いある町郊外のガソリンスタンドの前を横切る馬車。
愛想のいいおじさん達でしたので、思わず撮ってしまいました。今でも田舎の方では、このような馬車が立派に活躍しているんです。もちろん、普通に車道を走っています(笑)。
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~**~*~*~**~*~*~**~*~*~**~*~*~**~*~*~**~*~*~**~*~*~**~

えー、ここからは、いつもの(!)マニアック路線でいかせていただきます。
写真は、『ユラン・カレ(Yılankale)』という城塞です。(訳して「ヘビの城」です)
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アダナ(Adana)の東、ジェイハン(Ceyhan)という町の郊外にあって、高速道路からとってもよく見えたので、パチリ。実は、あの城の上まで登ってみたかったのですけれどね、先を急ぐ・・・とのことで断念。

ちょっと遠くてわかりにくいですので、城塞をUPで。
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かなり険しい岩山のてっぺんに造られています。
このユラン・カレは、ビザンティン時代に基礎が造られ、11~12世紀に十字軍によって建てられた城塞です。
城塞の中には、数個の部屋や教会、貯蔵庫があり、十字軍と共に、キリキア・アルメニア王国も城塞として使っていたそうです。
この辺りは広大な平野が広がっていて、また近くをシルクロードが通っているという立地から、当時とても重要な役割を果たしていたんでしょうね。

また、アダナ近郊には、このような小さな城塞が他にもいくつか残されているそうです。この辺りは、中世・十字軍時代の重要ポイントだったことがわかりますねぇ。

ところで、このユラン・カレ、中世には『ガヴァラ(Gavara)』と呼ばれていたそうなんですけれど、17世紀に、時のトルコ人大旅行家・エヴリヤ・チェレビ(Evliya Çelebi )は、この土地に伝わるあの伝説のシャフメランにちなんで、『シャフメラン・カレシ(Şahmeran Kalesi)』と名付けたそうです。
実は、このシャフメラン・カレシの話は、以前にシャフメランについて調べていた時に、ディヤルバクルの観光局の方に教えてもらっていたんです。なので、アダナが近付いてくると、どこだろ・どこだろ、とドキドキしながら探していたんですよね。
あの雄姿が現れた時は、もう興奮状態で、車の中できゃーきゃー言ってましたっけ。
シャフメランの伝説には、ちょっと気持ちが入っているもので.....。

正直、やっぱり上まで登りたかったんですけれど、ま、こうして遠くからでもあの姿が見られたということは、嬉しいことです!

ということで、南東部地方の風景を少しだけですけれど紹介してみました。


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by yokocan21 | 2008-09-28 07:21 | 旅・散歩  

エーイル(アッシリア城塞のある町)

もう、先々々週の週末になるんですけれど、ディヤルバクル近郊のとある小さな町へ出掛けてきました。
ダンナが親しくしている方の出身地ということで、その方のご家族も一緒に案内して下さいました。
行き先は、ディヤルバクルより北へ約50km、エーイル(Eğil)という町。
その日は、新緑の眩しい、キラキラと太陽の照りつける行楽日和の日曜日でしたぁ~。

おっと、町のことを書く前に、いつものようにこの町の歴史をおさらい。 

エーイルの町の歴史は、遥かメソポタミア文明にまで遡るそうです。
紀元前3500~1260年の間には、この地はスバル人、フルリ人、そしてミタンニ王国に支配されていました。
その後、紀元前13世紀後半にアッシリアに攻め込まれ、以後紀元前7世紀前半までの長い間、アッシリアの支配が続きました。
その後は、この地方お馴染みの、メディア王国、ペルシャ帝国、アレキサンダー大王、セレウコス朝、ローマ帝国、ビザンティン帝国と続き、7世紀半ばから8世紀半ばまではアルメニア王国の支配下、その後はアッバース朝、再びビザンティン帝国下となり、セルジューク朝やアクコユンル(白羊)朝などを経て、1515年以降はオスマン朝の支配下になります。

トルコの南東部地方は、目まぐるしく支配者が変わっていくので、なかなかついていけません(悲)。
また、エーイルは現在の名前であって、古代には「スパニ」と呼ばれ、ローマ帝国時代には「アルタギガルタ」、ビザンティン時代には「バシロン」、その後は「インギラ」と呼ばれていたそうです。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

では、エーイルの紹介です。
まず、この町のシンボル的存在、アッシリアの城塞(Asur Kalesi)
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この町は岩山の上に作られているんですけれど、横をティグリス川が流れていて、川へは深い谷が切り立っています。その谷底を見渡す高い岩山の上に造られているのが、アッシリアの城塞です。

f0058691_20224296.jpg町の横というか下を流れているティグリス川は、現在堰き止められていて、ダムになっています。

このダムの水の色が、何とも言えない綺麗な水色で、ターコイズ・ブルーというんでしょうか、鮮やかなんだけれど深くて澄んだ水色!
私のコンパクト・デジカメではここまでの色しか表現出来ないのが残念.....。光にキラキラ反射して、それは綺麗かったんですよ~~~。


f0058691_20232373.jpgダムの谷底に辛うじて建っている、これは、アルメニア時代の見張り塔だそうです。

この地がアルメニアに支配されていたのは、7世紀半ばから8世紀半ばの間。
かなり歴史ある塔です。


f0058691_2024063.jpg遠くからだとよくわからないですので、ズーム。

ずんぐりとした形が、いかにもアルメニアらしいですね。

地元の人によると、あの塔の地下室には、おびただしい宝物が隠されているのだとか!

そして、塔から丘の上の城までは、延々と地下通路が通っているのだとか。

なにやら、ロマンを掻き立てられるお話。



では、先のアッシリアの城塞へ登ってみることに。
上の写真を撮った丘の上から、今度はダムをグルリと回って反対側の丘の上へ。
全く整備も何もされていない急な坂道を、転げ落ちないように気をつけながら(!)、あの岩山のてっぺんまで行き着くと、そこには、こぉんな変わった形をした城塞跡があるんです。↓
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こちらは、↑の城塞跡を別角度から。↓
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中央の、岩をくり貫かれたところには、アッシリア王の玉座がありました。
玉座といっても、ただの大きな岩なんですれど、眼下に見えるティグリス川のゆらゆらとした流れと、遠く果てしなく続く大地.....あの光景は、王様にとっては、戦略を練るのに絶好の場だったのかもしれません。

この城塞の中には、ローマまたはビザンティン時代の教会も残っているらしいです。

また、この城塞の岩には、アッシリアのレリーフが今も残っているんです。でも、高いところにあって、私にはよく見えなかったのです。えーん。
f0058691_20255339.jpgで、どんなのかといいますと、こちらです。→
(エーイル市のHPより拝借してきました)

王が手に何かを持っている姿ですよね。
小さくて、よくわからないですけれど、アッシリアの雰囲気はビシビシ感じます。



f0058691_20264551.jpg城塞のてっぺんから下を眺める。

当時の石垣の様子がよくわかります。
三方を谷に囲まれた好立地であるため、ここは難攻不落の城だったのでしょうね。

また、向かい側の丘の上(木の茂っているところ)には、イスラムの偉い人たちの霊廟がいくつかあります。
この城塞に来る前は、そちらにいたんですけれど、あまりにもの混雑ぶりにびっくりしました。週末ということもあって、ディヤルバクルからも大勢の礼拝者がいらしているようでした。



こちらは、城塞より眺めた現在のエーイルの町。
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お昼は、町の郊外でバーベキュー(マンガル)をしましたよ~。
f0058691_20282657.jpg案内して下さったMさんの奥さんが、前日よりマリネした仔羊肉の串焼き(クズ・シシ=Kuzu sişi)が、とっても柔らかくって美味しかった~!あ、もちろん、かなーり辛かったのです。
子供達も大喜びで、パクパクかぶりついていました。(子供達用には唐辛子抜きのもの。でも、Mさんの一番上のお嬢ちゃんは辛いのも平気で食べてましたねぇ、さすがディヤルバクルっ子!)



途中、延々と広がる緑の大地。(走っている車から撮ったので、ブレブレ)
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この地方、今の季節だけが緑の季節なのですよ。夏になると辺りは茶色一色。乾いた大地へと変身します。
この冬から春にかけて、トルコの内陸部では雨が殆ど降らず、農作物に影響が出かけているというニュースをよく耳にします。けれども、この辺りはティグリス川があり、近くにダムもあるということで、小麦などの成長には今のところ影響はないということです。(ホッ!)


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by yokocan21 | 2008-05-06 20:34 | 旅・散歩  

伝説の女神・シャフメラン

ちょっと前の『マルディン紀行7(路地を散策)』の記事の中で、銅製品のお店の写真をのせています。覚えてらっしゃいますでしょうか?こちらです ↓
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その写真の左端に、ちょっと奇妙な怪物?妖怪?と思えるものの額が写っているんです。
そのことに、『地球散歩』のさらささんからコメントを頂いて、ちょうど私も「何なんだろう~」と不思議に思っていたので、調べてみることに。ああいう怪物系のものを見ると、どうしても真っ先にギリシャ神話を思い浮かべてしまいますので、その方向で調べてみたんですけれど、どうもシックリとこないんですよね。
顔が、どうもオリエンタルなんですよね。ギリシャ神話の怪物・妖怪系には似つかわしくないという。

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UPで載せてみます。

どうですか?太い眉にくっきりな目。トルコやペルシャっぽいですよねぇ。



f0058691_2314216.jpgそして、前回の『マルディン紀行8(建物考)』の中でもちょっとお知らせいたしました、上から3番目・部屋の中の銅版のお皿に描かれている絵。

これも、UPしてみます。

同じものなんですよねぇ。

今まで見たことのないものでしたので、周りのトルコ人にも聞いてみたり。でも、埒があかず。


そこで、偶然見つけた、『神魔精妖名辞典』というもの凄い情報量のサイト。こちらで質問させて頂く事にしました。管理人の武藤さま、お世話になりました!ありがとうございました!
そして、同時に、地元の観光局へも問い合わせてみました。
それで、この実体が明らかになったというわけです~。

これは、シャフメラン(Şahmeran)という〝アナトリアのヘビの女神〟なのだそうです。
家庭と女性を守護する地母神で世の中の秘密をすべて知ると言われているそうです。
アナトリアの、特に、南部・アダナ(Adana)近くのタルスス(Tarsus)という町や、南東部のマルディン(Mardin)でこの伝説が言い伝えられているのだそうです。

怪物だとか妖怪だとか、変なこと言ってごめんなさいね、シャフメラン!
私たち女性を守ってくれる、有り難い神様だったのですよ。

そして、このシャフメランには、興味深い伝説もありましたので、ついでに紹介させて頂きますね。
「何・何?」とおっしゃる方、続きは  「シャフメランの伝説」へどうぞ。

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シャフメランの伝説
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by yokocan21 | 2008-04-24 23:25 | 旅・散歩  

マルディン紀行・8(建物考)

マルディン紀行、再開いたします。
今回は、マルディン(Mardin)のある建物を中心にお話してきたいと思います。
旧市街の東の端に近いあたり、崩れかけた城門の近くにある、元ケルバンサライ(隊商宿)を改修した、『アルトゥクル・ケルヴァンサライ(Artuklu Kervansaray)』というホテルです。
とぉっても素敵な建物ですので、ホテルの宣伝という点ではなく、あくまでも〝建物の紹介〟という点でお話していこうと思います。
(といっても、ホテルもすごーく素敵なんですよ!私達が訪ねた時は丁度イスラムのお祭り(バイラム)だったためか満室だったようで、トルコ人にとっても人気のプチ・ホテルなんですよ)
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アルトゥク朝時代の1275年建立の建築物です。
外観は、典型的なマルディン地方の様式です。この様式、正確には何と呼ばれているのかわからないんですけれど、私は勝手に〝シュリヤーニ様式〟と呼んでいます。←ちょっと強引
というのは、こういう様式の建物って、ここマルディンだけではなく、お隣の町・ミディヤット(Midyat)でもよく見かけるからなのです。そのミディヤットという町も、マルディンと同じく古くからシュリヤーニ(シリア人)が多く住んでいた町。シュリヤーニ文化の土壌のある町なんです。

7世紀以降、町はイスラム化が進んでいったのですけれど、これらの町のシュリヤーニ人達は、自分達の独自の文化を守り続けていくことが出来たらしいんです。
この建物は、イスラム王朝のアルトゥク朝時代に建てられたものですけれど、イスラムらしさは殆ど感じられないですよね。それもそのはずで、元からこの町にあったシュリヤーニ文化の上に成り立った建築様式だからなんです。

こちらは(↓)、2階部分のテラス。オープンエア・カフェとして利用されています。
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壁に施されたレリーフが素晴らしいです!
このアーチ状の部分は、イスラム建築を見慣れた目には、モスクのミフラープ(メッカの方向を示す壁がん(ニッチ))を連想してしまいがちです。
でも、この地では、イスラム教が興るずっと昔からシリア正教会の信仰が盛んだったわけで、イスラム教は後から入ってきたものなんですよね。実際、イスラム教が興ったのは7世紀初頭の頃です。
また、シリア正教会の教会内部正面には、このようなミフラープの作りとそっくりな壁がんが設えてあるんですよね。
その辺り、こちらの記事こちらの記事の教会内部の写真を見ていただくと、よくわかります。

私の勝手な推測なんですけれど、元々このような壁がんはシリア正教会の教会で使用されていたものが、その後興ったイスラム教のモスクに影響を与えた、というもの。
もっと他の地方(イスラエルやシリア辺り)の教会も見てみないと、ちゃんとしたことは言えないとは思うのですけれど、キリスト教とイスラム教のまさに交じり合ったこの場所を見る限りでは、そう感じられずにはいられないんですよねぇ。
あくまでも素人の勝手な発想ですので、このあたり、詳しいことをご存知の方いらっしゃいましたら、どうか教えて下さいませ!

こちらは(↓)、テラスに続く部屋。
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壁に沿って、床にズラリと座布団というのかクッションが並べられているインテリアは、アラブ風。
トルコ人も、昔は床に座る生活だったんですよね。ところが近代化と共に、現在はイス文化がメインになっています。でも、今でも田舎の方へ行けば、このように床に座る生活をしている人たちは大勢いますよ。
このお部屋では、寛いでお茶を飲んだり出来るようです。

《部屋の真正面の、壁にかけられた銅版のお皿のモチーフ、よく覚えておいて下さいね。(ちょっと見にくいですけれど...)これ、次回の記事のメインテーマとなりますので》

f0058691_17563436.jpgこちらは、テラスの壁のレリーフ。

教会の記事でも、紹介しましたけれど、このような繊細なレリーフは、とってもマルディンらしいです。
イスラム王朝の時代に建てられたとは思えない、イスラムらしさを感じることが出来ないレリーフですよね。ほんとに不思議です。


不思議といえば、もうひとつ。
このテラスに面した壁の一部に、いわゆる〝ダビデの星(六芒星)〟のレリーフが施されていたことです。
「ん、何で?」と思って、案内して下さったホテルのマネージャーの方に尋ねてみると、このモチーフは、〝お守り・おまじない〟の意味なのだそうです。

で、後でそのことを調べてみましたら、〝ダビデの星〟は今は一般的にはイスラエルを象徴するものとして知られているものですけれど、昔の時代にはそういう意識はなく、〝ソロモンの封印〟という意味の〝お守り〝であったそうです。 (ソロモンは父のダビデと共に、イスラム教では預言者の一人と数えられていて、偉大な人物として崇められているんですよ)
そういえば、トルコのキリムや絨毯のモチーフにも〝ソロモンの封印〟という星のモチーフがありますねぇ。
なんだか、とっても興味深いお話で、思いは遥かダビデやソロモンの時代へ~~~!繋がっているんですよねぇ。

そのモチーフの写真、私の腕では上手く撮れなかったですので、代わりに、このホテルのお隣にある、メリク・マフムド・ジャーミィ(Melik Mahmud Camii)の壁に施されたモチーフを載せておきます。
モスクの壁に、ダビデの星、だなんて、とっても意外ですよねぇ。でも、お守りの意味合いなんですよねぇ。
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こちらは(↓)、ホテルのロビー。修復されてはいますけれど、重厚な石造りは歴史を感じます。
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最後は、テラスから眺めた、お隣、メリク・マフムド・ジャーミィ(Melik Mahmud Camii)
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途中、何度も脱線をしながらのマルディン紀行でしたけれど、今回で一応最終回とさせて頂きます。
色んな方面から見てきましたマルディン、他にはない独特な魅力を感じて頂ければ、とっても嬉しいです♪

では、追加として、 続きへどうぞ~。


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《続き》
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by yokocan21 | 2008-04-19 18:06 | 旅・散歩  

マルディン紀行・7(路地を散策)

私の大好きな町・マルディン(Mardin)。モスク、教会と歴史ある建物をザザーッと紹介してきましたけれど、今回は、町の中、それもこの町独特の路地裏を中心に散策してみしょう。

この町の建築物は、ご存知のように、とっても趣のある、ちょっとトルコ離れしたというか、トルコのイメージを覆してしまうような様式のものが多くて、同じトルコにいながらも異国情緒がたっぷり。
で、町並みもしかり。町(旧市街)のメインストリートである大通りは交通量も多いものの、きょろきょろしていると、やっぱりあちこちで歴史的なマルディン様式の建物を見つけることが出来ます。(以前の記事で紹介しています博物館も、その内のひとつ)
でも、裏道好きな私は、どうしても大通りの奥へ奥へと入って行きたがります。

まず、大通りから急な坂道、または急勾配な階段を降りてゆきます。
そこには活気のいい市場が広がっています。小径には、日用品・食料品・野菜や果物・お肉などが、所狭しと売られていて、この町一番の活気あるエリア。
そんな地区の一角に、突如として現れるのが、こちらのミナレット(尖塔)。 ↓

f0058691_3412819.jpgこの町最古のモスク、『ウル・ジャーミィ(Ulu Camii=大モスク)』のものです。
アルトゥク朝時代の1199年に建立されました。

この地方独特のどっしりとした太めのミナレットは、側面に様々なレリーフや碑文が施されていて、とっても美しい姿です。

これとよく似た形のものとして、ディヤルバクルの〝サファ・ジャーミィ(Safa Camii)〟のミナレット、そしてハサンケイフの〝チフト・メルディヴェンリ・ミナーレ(Çift Merdivenli Minare)〟を思い浮かべます。
(写真を見比べてみると、ほんとにそっくり!)

ただ、サファ・ジャーミィは、15世紀のアクコユンル時代の建築物。
チフト・メルディヴェンリ・ミナーレは、14世紀・アイユーブ朝時代の建築物。
12世紀後半に建てられたウル・ジャーミィのものとは、時代がかなりずれていますけれど、レリーフの施し方とか碑文の入れ方とか、なぜだかそっくりなんですよねぇ。
ミナレット好きとしては、その辺、たまらなく興味が湧いてきます。


こちらは、そのウル・ジャーミィを別の方角から撮ったもの。モスクのドームも見えます。ドームはこの町でよく見かける、畝のあるタイプ。
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右側の建物は一般のおうちだと思うんですけれど、壁のデコボコ(?)というのか、低い三角錐を連ねていったデザイン、とても珍しい感じです。

こちらは、市場の中にある銅製品屋さん。 ↓
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シルバーのものは、銅にスズメッキを施したもので、南東部地方ではよく見かけます。
吊り下げられているランプも、銅製。写真では見えないんですけれど、細かい細工がたくさんされていました。

ナチュラル・ソープ色々。 ↓
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ブットゥム・サブン(bıttım sabun)〟といって、ここマルディンや、隣のシイィルト県でよく作られている、ブットゥム(bıttım)という野生のピスタチオから採れる油を使った石鹸です。
髪の毛や頭皮にとても良い成分があるらしく、特に、抜け毛予防やフケ予防に効果があるらしいです。
また、メネンギッチ(menengiç)という、こちらもピスタチオに似た漆科の実から採れる油も混ぜて作られたりもするそうです。
写真は、左から、「ブットゥム製・フケ用」、「ブットゥム+アーモンド油・抜け毛用」、「メネンギッチ・ドライヘア用」、と書かれています。
これ、うちのダンナに買ってあげよう~と思っていたのに、忘れてしまいましたぁ.....。


では、今度は大通りの山側の路地に迷い込んでみましょう。
この辺りは、重厚な石造りの高い壁、入り組んだ細い小道、デコボコの石畳.....。市場の喧騒とは打って変わって、いたって静まり返った空間が広がっています。ときおり元気な子供達が飛び出してきたりするのが、嬉しかったり。
そこは、まるで中世の町に迷い込んでしまったかのような錯覚に襲われそうになります。

f0058691_3461048.jpg高い壁に挟まれた細い路地。

壁にさりげなくレリーフが施されているのが素敵。

正面のアーチ型の通路は、ここマルディンでは、〝アッバラ(abbara)〟と言われています。

細い路地の袋小路になるはずの建物の1階部分を、アーチ型にトンネル状に切り開いたものを、こう呼びます。

鋭いアーチ型や丸いアーチ型、形は様々で、旧市街の路地では、至るところで見かけられます。
940年も前から使われている建築技術だそうで、今も修復を重ねながら使われ続けているんですよ。

面白いことは、アッバラの下部分(道路部分)は自治体の所有で、上部(家の中になりますよね)は家主の所有だと、決められていることです。


f0058691_347512.jpgアッバラの中より外を望む。

マルディンの町は、道が狭いだけでなく、急勾配な坂道だらけですので、メインストリートや一部の道以外は車が入って来れません。なので、物の配達やゴミ収集など本来なら車ですることが、ここではロバがやっているんです。
小回りがきいて、坂道も楽々と上ってゆけるロバはとっても重宝されているそうです。

いいですよねぇ、ロバが活躍するエコな町。

マルディンへは何度訪れても、通りにゴミが落ちているところを殆ど見なかったんですけれど(これって、トルコの町では相当に珍しいこと!)、この写真を撮った日はバイラム(イスラム教のお祭り)だったことで、ゴミ収集が来ずにあちこちにゴミが落ちていました。残念。
でも、次の日にはきっとロバくんが活躍してくれたことでしょう。



f0058691_3474776.jpg最後に、こちらのお宅、「メッカ巡礼に行って来ました」という記しを玄関扉の上に掲げてらっしゃいます。

中央に、カーバ神殿の写真かな、陶器かな、飾られていますよね。

その両横のお皿には、右が「アッラー」、左は「ムハンマド」の文字。 ←これら二つは、私が唯一読めるアラブ文字!
ま、読めるというよりは、姿形で覚えているだけのことなんですけれどね.....。モスク見学に度々行っている内に覚えてしまいましたぁ。



マルディンの小径散策、いかがでしたか?
悠久の歴史に彩られた落ち着いた町、まだまだ紹介しきれていないのが残念なんですけれど、まぁ、あまり引っぱっても何なので、次回でとりあえず終了、ということにさせて頂きます。
次回も、お楽しみに~。

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by yokocan21 | 2008-04-12 03:55 | 旅・散歩  

マルディン紀行・6(教会編)

この地マルディン(Mardin)は、地理的・歴史的背景から、色んな民族が交錯してきた町。そして、今も色んな民族が一緒に暮らしている町なんです。トルコ人・クルド人・アラブ人、そしてトルコ語でシュリヤーニ(Süryani)と呼ばれるシリア人(シリアという国とは別ですよ)。
このシュリヤーニと呼ばれる人たちは、イエス・キリストが話していたと言われる「アラム語」の一派である「シュリヤーニ語(シリア語)」を話す人たちで、主にシリア正教会徒です。(←※注)

では、そのシリア正教会の教会を紹介。
以前の記事でも紹介しました、『Mor Behnam Kilisesi(モル・ベフナム教会)』
(別名『Kırklar Kilisesi(40人教会)』。5世紀に建立された歴史ある教会です。
f0058691_20574822.jpg

ここは、マルディンの町中でも、数少ない現在も活動中の教会で、いつも訪れている親しみのある教会なのです。観光客が来ると、管理されている方の中からどなたかが案内を駆って下さいます。
内部は撮影禁止ですので写真はないのですけれど、他のシリア正教会の教会と同じく、とてもシンプルで可愛い感じのものです。

礼拝堂の外壁に施されたレリーフ。↓
どちらも、シュリヤーニ語 アラブ文字で色々と書かれています。ただ、言語については、アラブ語なのか、シュリヤーニ語なのか、はてまた他の言語なのかはわかりません。繊細で独特な曲線模様がなんとも美しい♪
f0058691_20433761.jpgf0058691_2044071.jpg


【追記】 レリーフの文字は、アラブ文字のようです。miriyunさん、ご指摘ありがとうございました!このレリーフ部分だけ周りの石の色とは違った色になっていますので、おそらく後から付け加えられたもののようです。

こちらは、礼拝堂に続くドアの上部のレリーフ(左)と、その横にあった馬に乗るキリストではなく、大天使ミカエルでしょうか。羽根があり、剣を持っていますものね。(右)。↓  ヨーロッパの教会で見かけるような厳かで神々しいお姿ではなく、何だか親しみやすい温和な印象です。
f0058691_20444865.jpgf0058691_2045820.jpg



こちらは、『Meryemana Kilisesi(聖マリア教会)』
f0058691_20455029.jpg
シュリヤーニ・カトリックの教会で、1895年、アンタクヤの主教、イグナティオス・ベンハムによって建立されました。
一時期は、主教座も置かれていたということです。
モル・ベフナム教会の横(裏側)に位置しているんですけれど、入り組んだ路地にあって、入り口が小さく、地元の少年が案内してくれていないと、見過ごしていたところでした。
比較的新しい建物ですので、レリーフなんかもとっても綺麗に残されていました。

中庭に面した壁に施されたレリーフ。文字はもちろんシュリヤーニ語。
f0058691_20462561.jpgf0058691_20464968.jpg


こちらは、礼拝堂内部の様子。内部はかなり広々としていて天井も高く、清々しい雰囲気でした。
f0058691_204737100.jpgf0058691_20475463.jpg



ここマルディンには、教会が9つもあると言われているのですけれど、実際に今も活動しているところは、数箇所のみ。近年になって、この地方の治安の悪さや経済状況の悪化などによって、シュリヤーニの人達がイスタンブールなどの都会や、またアメリカやヨーロッパなどへ移住していき、信者の減少が著しいのだそうです。
この聖マリア教会の近くにあるアルメニア教会の『モル・ユスフ教会(Moe Yusuf Kilisesi)』や、
町の下方にある2世紀に建立されたマルディン最古の教会・『マル・ミハイル教会(Mar Mihail Kilisesi)』といった教会は、活動休止中だということで、見学は無理でした。
それでも、細々とでもしっかりと自分達の信仰や文化を守り続けて来られているシュリヤーニの方々、頑張って欲しいものです。


※注 シュリヤーニ(Süryani)・・・シリア人、またはアッシリア人(現代アッシリア人)とも呼ばれる人たち。祖先はアッシリア人であったことから、こう呼ばれているそうです。
以前の記事では、シュリヤーニ=シリア正教会徒という書き方をしていたんですけれど、実はシュリヤーニの人達の全てがシリア正教会徒というわけではなく、カトリック(シュリヤーニ・カトリック)の信者の方もいます。
また、シリア正教について、とても詳しいサイトがありましたので、興味のある方、参照してみて下さい。こちら です。

で、マルディンといえば、ここを訪ねないわけにはいかない、素晴らしい修道院があります。
続きは、 からどうぞ~。


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続き・『デイルゥル・ザファラン修道院』
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by yokocan21 | 2008-04-09 21:04 | 旅・散歩  

マルディン紀行・5(モスク編)

前回紹介しましたモスクに続き、今回も〝マルディンのモスク〟、いってみます。
ここマルディンは、古くからイスラム系の王朝が活躍した土地柄、旧市街には、数々のモスクが林立しています。もちろん新しいものもあるんですけれど、特に歴史のあるものが目立ちます。
マルディンのモスクは、先が丸っこい感じで、どっしりとした印象のミナレット(尖塔)が特徴的です。ミナレットや壁に施された繊細なレリーフも、この町独特なものがあります。
そんな中から、素敵☆と思ったものを紹介します。

f0058691_613229.jpgアブドゥッラティフ・ジャーミィ(Abdullatif Camii)。またの名をラティフィイェ・ジャーミィ (Latifiye Camii)。

アルトゥク朝後期の1314年に、スルタンの家臣アブドゥッラティフ・ビン・アブドゥッラー(Abdullatif Bin Abdullah)によって建立されました。

ミナレット(尖塔)は、1845年、モスルの知事、ムハンメッド・ズィヤ・タイヤル・パシャ(Muhammet Ziya Tayyar Paşa)からの寄進だそうです。


f0058691_6144293.jpgこの正面の門構え、セルジューク朝の影響が大きいですねぇ。
元々、このアルトゥク朝自体が、セルジューク朝の配下から興った王朝だということを考えれば、納得でしょうか。
飾り気が殆どない分、正面のブルーや黒のレリーフが際立って綺麗!


f0058691_615612.jpgこのモスクは、二重の門構えになっていて、こちらは一番外側にある門。

修復されて間もないのか、ピカピカです。
こちらの門は、ちょっとレリーフにも凝っていて、なかなか見ごたえがあります。



f0058691_6154525.jpgメリク・マフムド・ジャーミィ(Melik Mahmud Camii) 。またの名をバブ・エス・スル・ジャーミィ(Bab Es Sur Camii) 。
1362年、アルトゥク朝元首、メリク・サーリヒ(Melik Salih)によって建立されたもの。

こちらも、門構えがセルジューク朝様式っぽいですね。


建物は正方形だそうで、中央部にドームが乗っています。
f0058691_6163452.jpg


内部。とってもシンプルな造りで、窓が少ないためか、薄暗かったです。
f0058691_6165754.jpg

ミンベル(※注)は木製で、よく見ると凝った彫刻が施されていました。
(写真は、許可を貰って撮っています)


スッティ・ラドゥヴィイェ・メドレセシ(Sıtti Radviye Medresesi)。 またの名を、ハトゥニイェ・メドレセシ(Hatuniyye Medresesi)。
f0058691_6173745.jpg

アルトゥク朝スルタン、クトベッディン・イルガーズィ(Kutbeddin İlgazi)の母、スッティ・ラドゥヴィイェ(Sıtti Radviye)の名の付いた神学校です。
12世紀の建立で、アナトリアでも最も古い神学校の一つとされています。(現在は使用されていません)
マルディン色の石で造られた、2階建ての重厚な建物です。

内部のモスク部分には、クトベッディン・イルガーズィ(手前)と母スッティ・ラドゥヴィイェ(奥)のお墓(石棺)が並べられています。
f0058691_6183532.jpg
トルコの高貴な方(男性)のお墓には、このように帽子(イスラム帽)がかぶされています。お墓によっては、ターバンということもありますね。また、女性のものには、白いスカーフが。
深い緑色は、イスラムの象徴的な色。

f0058691_6195939.jpgこちらは、イスラム教創始者・ムハンマドの足跡だとされているもの。

警備の警官のおじさんが、わざわざ鍵のかかったガラス箱を開けて下さいました。
男性のものの割には、意外と小さな足でした。

トルコは昔からイスラム教の王朝が連綿と続いている土地ですので、各地にムハンマドの聖遺物が残されていますよね。
ムハンマドの聖遺物をこうしてコレクションする、というのは、時の支配者にとっては実力を誇示する絶好のものだったのかもしれないですね。



最後に、
どうしても訪ねてみたい神学校があるんですけれど、いまだに叶えられていないのが。
ズィンジリイェ・メドレセシ(Zinciriye Medresesi)。またの名をスルタン・イサ・メドレセシ
(Sultan İsa Medresesi)といいます。
f0058691_6441468.jpgマルディンの町の、一番高い所に位置する神学校で、1385年建立の、石の彫刻が素晴らしいものだと聞いています。
2006年暮れ、神学校の上部の岩山が崩れ建物の一部に損傷が出たと、新聞で読みました。
そして、昨年(2007年)の春に訪れた時、地元の人にそのことを尋ねてみると、何と死者も出たらしい、ということなんです。大変なことになっていたらしいです。
よって、神学校は閉鎖中で、当分の間は立入り禁止だということでした。
続いて半年後の秋に訪れた時にも、そのことを聞いてみたんですけれど、やっぱり閉鎖中でした。
とっても残念なことで、悲しい思いでいっぱいです。
(こちらの画像は、www.discoverturkey.comより拝借しました) 凄い装飾でしょう~。憧れます。


※注 ミンベル(minber)・・・礼拝の際、イマーム(イスラム僧)が説教するために使う説教壇。


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by yokocan21 | 2008-03-19 06:28 | 旅・散歩  

マルディン紀行・4(歴史概要&モスク)

久々に、マルディン(Mardin)の紹介でも。

大好きな町・マルディン。
ここディヤルバクルから南に約90km。車で1時間程と近いこともあって、この3年半の間にもう4回も訪れているくらいに、私にとっては魅力たっぷりな町なのです。
1年前にも紹介しているんですけれど、今回はもうちょっと踏み込んで書いてみたいと思います。
写真などは、昨年の春と秋に訪れた時のものです。

まず、マルディンといえば、この光景ですよね。
f0058691_072423.jpg


岩山に貼りつくように建てられたベージュ色の四角い家々。岩山のてっぺんは城塞です。
前回の記事では触れなかった歴史についても、少し触れさせて下さい。この町は、あまりにも歴史が古くって、自分では頭の整理が出来ていなかったのですけれど、さすがに4回も訪ねていると、こんな頭でも少しずつ整理がついてきました。(興味のない方、サラサラーッと流して下さいませ)

〝北メソポタミア〟であるこの辺りに人が住み始めたのは、紀元前8000年頃のことで、マルディンが町として形成されたのは、紀元前4500年頃だといわれています。
地理的にとても重要な位置にあるマルディンは、古くから様々な民族に支配され続けてきました。
主なものだけでも、ミタンニ王国・アッシリア・ペルシャ帝国・ローマ帝国・ビザンティン帝国・アラブ人・セルジューク朝・アルトゥク朝・そしてオスマン朝。

紀元前4500年頃、スバリ人と呼ばれる人々がこの土地にやって来たのが町の始まり。
紀元前2850年、シュメール人の支配下に入り、その30年後の紀元前2820年にはアッカド人に支配されます。
紀元前2200年にはエラム人に支配され、一時的にヒッタイトやミディリ人にも支配されますが、紀元前1367年にアッシリアの支配下に入ります。その後、紀元前800年までマルディンはアッシリアの支配が続きます。アッシリア時代の町の名は、〝Erdobe〟。
その後、暫くの間はウラルトゥ王国に支配され、紀元前600年頃以降はバビロニア王国の支配下に入ります。ちょうどネブカドネザル2世の時代ですね。

紀元前539年には、ペルシャ帝国(アケメネス朝)の支配が始まり、紀元前335年にはアレキサンダー大王の支配、続いて紀元前311年からはセレウコス朝の支配、紀元前237年~131年の間はパルティア王国の支配を受けます。
249年からはローマ帝国に支配され、続くビザンティン帝国の支配を受けます。

640年にはアラブ軍の征服が始まり、この地はイスラム化が始まります。
692年にはウマイヤ朝、824年にはアッバース朝に支配され、1089年にセルジューク朝の支配下に入るまでの間は、ハムダ-ン朝(※注1)やマルワーン朝(※注2)に支配されます。
1105年にはアルトゥク朝(※注3)の首都となり、304年続いたアルトゥク朝の時期、マルディンは大いに栄えます。現在残っている主なモスクや神学校、隊商宿などはこの時期に建設されたもの。
その後、ティムール軍の攻撃にあい、町や城塞は破壊されてしまいます。
1409年からはカラコユンル朝(黒羊朝)、1462年からはアクコユンル朝(白羊朝)に支配されます。
そして1516年からはオスマン朝の支配下となります。

ひぃー、疲れたぁ。メソポタミア文明って凄く興味のある分野なんですけれど、いかんせん前後関係が殆ど掴めていないので、調べたはいいけれど、まとめるのが大変。知らない民族や王朝がわんさか。トルコ語の資料を元にしているんですけれど、間違った個所があればご指摘お願いします。

*** *** *** ***  *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***

それでは、ここからが今回の本題です。

f0058691_0115928.jpg町のド真ん中にある、アルトゥク朝時代のモスク、シェヒディイェ・神学校及びジャーミィ
(Şehidiye Medresesi ve Camii)。

おそらく1201~1239の間に、アルトゥク朝のスルタン・メリク・ナスルッディン・アルトゥク・アスラン
( Melik Nasruddin Artuk Aslan)によって建てられました。
正確な建立年はわからないのだそうですけれど、13世紀のものだということは確かなようです。

元々は神学校として使われていたものが、現在はモスクとして使用されています。



メインストリートより、裏道に入り、階段を少し下ったところが入り口。
その入り口の上部にあるレリーフがこちら。繊細なレリーフが素敵♪
f0058691_0125263.jpg


f0058691_0131663.jpgミナレット(尖塔)。

このミナレットは1916年に建てられたものだそうですので、新しいですね。
ぐるりが畝状になった珍しい形です。
この町のモスクや神学校のドームも、このような畝状になった物が多くって、これはマルディン独特のデザインのようです。

上部のバルコニー部分に施されている装飾が、またとっても綺麗~。


f0058691_0141496.jpg別角度から。岩山を背景に。

いかにもマルディン的な光景です。



このモスクを上から見ると。中庭です。
f0058691_0144323.jpg

以前が神学校だったというのがよくわかります。回廊に沿って小部屋が並んでいます。
奥に見える泉は、山からの湧き水を引いてきているんだそうです。勿論、神聖なお水。

この町は、一番上の写真でもわかるとおり、急斜面に造られた町ですので、下の建物の屋根が目の前にある、という構造です。
このモスクは、大通りの一本下に建てられていますので、大通り沿いでは屋根の部分を有効利用。屋外カフェ(チャイ・バフチェシ)となっています。

そして、その屋外カフェ(実際にはモスクの屋根の上)から眺めたマルディンの町。
f0058691_0152451.jpg

岩山のてっぺんには城塞が。手前の大きな建物は警察だったでしょうか。郵便局も入っていました。
この眺めは圧巻でしたぁ!こぉんな絶景を眺めながらお茶が出来るだなんて、ひゃ~幸せ♪

とりあえず、今日はここまで。
次回は、他のイスラム建築を紹介予定です。

※注1 ハムダ-ン朝・・・10世紀、北メソポタミア地方(ジャジーラ)のモスル(現イラク北部の町)からアレッポ(シリア西北部の町)にかけて統治したアラブ人の王朝。詳しくは、こちら
 【追記】UP当初書いていました「ハムダニ朝」というのはトルコ語読みで、それを直接日本語に訳しても何も判らなかったのです。miriyunさんのコメントのヒントにより、「ハムダーン朝」とわかりました。本文、訂正しておきました。

※注2 マルワーン朝・・・10~11世紀にかけてディヤルバクルで興ったクルド人の王朝。
 【追記】トルコ語読みでは、メルヴァニ朝ですけれど、正確には、「マルワーン朝」。こちらも、本文、訂正しておきました。

※注3 アルトゥク朝・・・11~15世紀にかけて今のイラク北部・トルコ南東部を支配した、オーウズ系トゥルクマンの王朝。詳しくは、こちら


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by yokocan21 | 2008-03-18 00:23 | 旅・散歩  

ハラン(シャンルウルファ近郊の村)

ウルファに行ったなら、この村を訪れないわけにはいきません。というほど、超有名な村があるんです。
ウルファの町から南に44km、とんがり円錐形の土の屋根が特徴的な家々が並ぶ、これまた歴史ある村、ハラン(Harran)です。

こちらは、村の全望。どこまでも続く茶色い大地や緑の畑の中に、突如としてその村は現れます。
f0058691_81022100.jpg

ハラン平原と呼ばれるこの辺りは、『GAP』(※注1)という一大灌漑プロジェクトのため、緑豊かな畑が続いています。主に、麦や綿花、唐辛子などが栽培されているようです。とぉっても豊かな大地なのです。

と、ここでいつものように、ちょっとハランの歴史を紹介。
ここも例に漏れず、相当に古い歴史があります。
旧約聖書に〝Haran〟という名で登場する町は、この町のことだと言われています。アブラハムがパレスティナのカナンの地へ移動する途中で立ち寄った町、とも言われています。
ハランとは、シュリヤーニ語(※注2)で、「旅する隊商」の意味の〝Haran-u〟からきているそうです。

この地が歴史に登場するのは、紀元前2000年頃のこと。紀元前2000年頃のヒッタイトの粘土板に、ヒッタイト王国とミタンニ王国の同意により、ハランにある月の神(Sin)と太陽の神の存在が証言された、ということが記されているということです。

この町は、アッシリア帝国の主要な交易地として大いに栄えました。また、町は、月や太陽、宇宙を信仰の対象としたサビアン教(Sabiizm)(※注3)の中心地としても知られていました。そのため、天文学も大いに発達していたようです。
このサビアン教は、11世紀に至るまで、この町で信仰が続けられたそうです。

アッシリア帝国の崩壊の後は、ペルシャ帝国(アケメネス朝)の支配下に入ります。その後、ローマ帝国やウマイヤ朝、続くアッバース朝と支配され、このアッバース朝時代には大学も造られたそうです。
その後は、ファーティマ朝、ザンギー朝、アイユーブ朝、セルジューク朝とイスラム国家に支配され、1260年にはモンゴル軍の襲撃を受け、その後の10年の間モンゴル軍によって町は焼き尽くされてしまいます。
その後オスマン朝の支配下となるも、町は過去の栄光を取り戻せないまま、現在に至ります。


ハランの家。
f0058691_8122782.jpg

何とも個性的な、面白い屋根をした家です。これらの家は全て手造りで、日干しレンガを積み上げ、土と泥で出来ているんだそうです。
この地方は、真夏には50℃以上にもなる超激暑地帯。なので、涼しく過ごせる工夫が見られるんですよね。太陽熱を最小限に受けるようにとの、とんがり屋根。実際、中はとってもひぃ~んやり。

f0058691_8131444.jpgこちら、屋根のUP。



f0058691_8141178.jpg中の様子。

てっぺんに空気穴が開いています。

この村では、新たに円錐形の屋根付きの家を建てることは禁止されているそうで、村に数少ない職人さんは、屋根の修理をするのみなのだそうです。
最近は、海外からの援助でかなりな数の屋根が綺麗に修理されていました。
以前訪れた時は、もっとぼろぼろでした....。

そして、今はこれらの家に住むことはなく、主に倉庫として使われています。
一部のお宅では、観光客に開放し、貴重な収入源にもなっているようです。
(私達が訪ねたのも、観光客用に開放されたお宅のところ)


ちなみに、現在のハラン村の住人は、殆どがアラブ人。トルコの他の地域では見かけることのないような原色系の衣裳を着た女性たちが多く、年配の女性には手にタトゥーを入れている人も。とっても綺麗な衣裳でしたので、一緒に写真を撮ったのですけれど、その写真がなーい。がび~ん。

村の横にある、城塞
f0058691_8144941.jpg
この町は、周りを城壁で囲まれた町だったそうですけれど、今は一部の門を残して殆ど残っていません。
この城塞は、元々あった城壁の一部として建てられたもので、現在残っているものは、1059年、アラブのファーティマ朝によって改築されたもの。
以前訪れた時に中を見て周ったのですけれど、今はあまりにも保存状態が悪くて、村の人たちが、岩が落ちてくる危険があるので近寄らないように、と言うので、外から見るだけに。

元々のハランの町は、今の村(とんがり屋根のある村)の横に位置していたようです。一応、町の跡らしき石がゴロゴロしています。

ハラン村の郊外にある、ウル・ジャーミ(Ulu Cami)跡。 (画像は、シャンルウルファ県発行の年鑑(1997年度版)より) (情けないことに、デジカメの電池が切れてしまって、これ以降の写真撮れず...です)
f0058691_8161818.jpg

ウマイヤ朝時代後期、744~750年に、マルワーンⅡ世により建立されたもの。
元は、〝Cami-el Firdevs〟(〝天国のモスク〟の意)と呼ばれ、木製のドームの付いた立派なモスクだったようです。でも今は朽ち果て、ミナレット(尖塔)と僅かな部分を残すのみ。

さらさらーっと見てきましたハラン、その昔はさぞかし繁栄したんでしょうけれど、現在の姿は無残です。当時の町のあった所は、あちこち発掘されているんですけれど、遺跡と呼べる程のものではないですね。
その当時を偲ぶには、あまりにも想像力が必要すぎて、私などにはちょっと無理でした.....。

これで、シャンルウルファ紀行はおしまいです。長々と(途中脱線もあり)お付き合いありがとうございました!
ハラン村のこと、続きは、↓↓↓ です。


※注1 GAP・・・〝Güneydoğu Anadolu Projesi〟の略。「南東部アナトリア・プロジェクト」。ユーフラテス川、ティグリス川に挟まれた南東部地方の一大灌漑、電力、農業事業。ウルファ北にあるアタテュルク・ダム(トルコ最大)を中心に灌漑、発電が行われている。

※注2 シュリヤーニ語・・・イエスが話していた〝アラム語〟の一種。〝シリア語〟と呼ばれている。

※注3 サビアン教・・・サビアン占星術はここからきているのでしょうか。世界一古い宗教だと言われているミトラ教との接点もあるようなんですけれど、よくわかりません。どなたかヘルプ~。

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by yokocan21 | 2007-12-07 08:26 | 旅・散歩