「ほっ」と。キャンペーン

タグ:建築物 ( 15 ) タグの人気記事

 

アヤ・イリーニ博物館(アヤ・イリーニ聖堂)

先週、お友達の madamkaseさんと、旧市街、トプカプ宮殿(Topkapı Sarayı)の前庭にある、アヤ・イリーニ博物館(Aya İrini Müzesi)へ行ってきました。
これまで、アヤ・イリーニ博物館は何度も外から見たことがあるんですけれど、中には入ったことがなかったので、ワクワクして出かけました。
実は、ある展覧会を見に行ったんですけれど、その展覧会の様子は次回ということで(写真、まだ整理ついてないもんで)、今回は、アヤ・イリーニ博物館について、ちょっとお話を。ちなみに、その展覧会も、すーっごく良かったですので、次回、お楽しみに~。

f0058691_8114825.jpg

この建物、今は博物館となっているんですけれど、元々はビザンティン帝国時代の聖堂でした。
トルコ語では、『アヤ・イリーニ』、ギリシャ語では『ハギア・エイレーネー』と呼ばれる聖堂は、色んな歴史を経て今に至ります。(イスタンブルにあるビザンティン建築の殆どがそうであるように)


アヤ・イリーニ聖堂のある場所には、元々、ビザンティオン(ビザンティウム)の時代に聖堂が立っていたらしいです。その場所に、4世紀初頭、コンスタンティヌス1世が、アヤ・イリーニ聖堂を建立しました。
アヤ・イリーニ聖堂は、この街で最古の聖堂で、アヤ・ソフィア大聖堂が建てられるまでは、ここに主教座が置かれていたそうです。

このアヤ・イリーニとは、「聖なる平和」という意味で、コンスタンティヌス1世の時代の実在の人物の名前だといわれています。コンスタンティノープルでは、まだキリスト教が浸透していなかった時代、民衆に非難・罵倒されながらも布教に命を注いだ人物なのだそうです。

そんな聖なる人物の名を冠したこの聖堂は、532年にニカの反乱で破壊され、その後、548年にユスティニアヌス1世が再建しました。現在ある建物は、この時代のもの。
8世紀には地震の被害にあい、かなりなダメージを受けるも、コンスタンティヌス5世が修復しました。その時、内部がモザイクやフレスコ画で飾られました。

1453年に、コンスタンティノープルが征服されてオスマン帝国になってからは、武器弾薬庫として利用されたり、また、スルタン・アフメット3世(Sultan III. Ahmet)の時代(18世紀初頭)には軍事博物館として利用されました。そして、スルタン・アブドゥルメジト(Sultan Abdülmecit)の時代(19世紀中頃)には、軍事と考古学博物館として利用されました。

1970年代には、大規模な修復がなされ、現在は、トルコ・文化観光省の管轄となっています。夏の「イスタンブル・国際音楽フェスティヴァル」の会場として利用されたり、展覧会やクラシックのコンサートホールとして利用されたりしています。

なお、普段は閉鎖されていて、催しがあるときのみ開館します。



ざぁっと、こんな歴史があります。
では、内部を見ていきましょう。

f0058691_812268.jpg

まずは、入口の部分。

いかにも、歴史ありそうな雰囲気です。




f0058691_814853.jpg

フラッシュ付けずに撮ると、こんな感じ。

ここは、身廊に続くアーチのある部分。

この右側向こうの部分で、今回の展覧会は行われていました。



展覧会が行われていた部分。ドームのある身廊の外側、中庭をアーケードでぐるりと囲んだ部分です。外部拝廊というんでしょうか?
アーチと、レンガの石積みが綺麗ですよね~。
f0058691_815241.jpg



f0058691_8163391.jpg

アーケード部分から、中庭を隔ててドームを眺める。

このような、ドームとバシリカが合わさった形式のものを「円蓋式バシリカ」というんだそうです。

初期ビザンティン時代の代表的な建築様式なのだそうです。



f0058691_8173024.jpg

大きな十字架の描かれた身廊部分。

この内部には立ち入り禁止のため、ガラスの外側から撮影したものですので、全体がいまいちわからず。


f0058691_8181548.jpg

ですので、こちらを。(wikipediaより拝借しました)


f0058691_8185223.jpg

展覧会会場の壁にあったモザイク。

この聖堂の床にあったものでしょう。

保存状態ばっちり。




こちらも、展覧会会場の壁にあったもの。
f0058691_8193622.jpgf0058691_820113.jpg

右:ビザンティン帝国のお妃と皇帝(顔がないですけれど)&子供?
左:どなたでしょう?



お隣にある、ビザンティン建築の最高峰・「アヤ・ソフィア大聖堂」の小型版のような「アヤ・イリーニ聖堂」。
イスタンブル観光の2大ハイライトである、アヤ・ソフィア大聖堂の真横で、トプカプ宮殿の真前、という位置にありながら、そして大勢の観光客が横を通り過ぎていきながら、気に掛ける人は少ないように思います。普段は閉館しているということもあるでしょうけれど。
なんだか、忘れ去られたかのように、ひっそりと佇むその姿は、ビザンティン帝国の栄光とオスマン帝国の栄華を見守ってきた、老貴婦人という風情でもありました。



ブログ・ランキングに参加しています。ポチッと応援よろしくお願いします♪
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 海外生活ブログ トルコ情報へ
[PR]

by yokocan21 | 2011-01-24 08:27 | 旅・散歩  

犠牲祭@イズミル パート4

引き続き、イズミル(İzmir)です。(これが最後ですので.....)

イズミルといえば、街の雰囲気も、その街を歩く人々も開放的でモダン。エーゲ海の陽光降り注ぐ明るい街は、どよよーん、と古めかしくコンサバな印象ってないんですよね。
イスタンブルや他の街に比べれば、モスクの数も少ないような。(中心部に限ってのことですけれど)
でも、一部、昔の建物が残っているエリアもあるんです。オスマン帝国時代に建てられたモスクなどが残っています。

イズミルのど真ん中、コナック(Konak)広場のすぐ横のエリア。ケメルアルトゥ(Kemeraltı)という一角があります。
そこは、細い入り組んだ道に日用品や装飾品などの店が建ち並び、横道に入ると、おもちゃや部品などの問屋が並んでいます。その辺りは、1922年の大火事(※注1)から被災を免れたのでしょう、古い建物が結構残っているんです。
そんな、ごちゃごちゃとしたエリアの一角に、オスマン朝時代に建てられたキャラバンサライ(Kervansaray=隊商宿)があります。

外から見ると、こんな感じ。クズラルアース・ハン(Kızlarağası Hanı)です。
f0058691_618333.jpg


このような隊商宿は、トルコの各地に数多く残されているんですけれど、隊商宿という名前で呼ばれてはいるものの、単に宿として利用されていたわけではないんです。
隊商を率いてやって来た商人たちは、宿をとるのと同時に、そこで商いも行います。だいたい、1階部分にはラクダの厩があり、商業をするエリア。2階部分が宿泊エリアです。ですので、厳密には、隊商宿兼商業施設、といったところでしょうか。

このクズラルアース・ハンは、オスマン朝時代の1744年、宦官長であった、ハジ・ベシル・アー(Hacı Beşir Ağa)によって建設されました。
なお、この「宦官長」というのが、「クズラル・アース(Kızlarağası)」という意味です。クズラル・アース=直訳すると「女の子たちの長」。なんでかといいますと、オスマン朝時代の宦官長というのは、ハレム(Harem)のお目付け役でもあったからなのですね。
ちなみに、宦官長は、主に、アフリカから連れてこられた黒人が多かったのも、オスマン時代の特徴です。


2階建ての建物の2階部分から、中庭を眺めて。
小さな窓がいっぱい並んでいるのは、客室の窓です。中庭は、現在はカフェとなっています。
f0058691_6191149.jpg

向こう側のモスクはヒサル・ジャーミィ(Hisar Camii)
16世紀後半(1592年または1598年と言われている)、モッラ・ヤークプ・ベイ(Molla Yakup Bey)により建てられました。



現在、この隊商宿は修復され、お土産屋や絨毯屋、骨董品屋やアクセサリー屋といったお店がいっぱい入っています。
廊下は、こんな感じ。明かり取りの窓があり、規則正しく並べられた屋根の石の様子など、とってもいい雰囲気です。
f0058691_620757.jpgf0058691_6203138.jpg

左は骨董品屋さんが集まるエリア。
右はアクセサリーショップやお土産屋さんの集まるエリア。


2階部分を歩いていて面白いお店を発見。ネイ(Ney)という葦笛の専門店です。
トルコの古典音楽(特にスーフィズム音楽)には欠かせない楽器です。まぁ、一言でネイといっても、様々な長さのものがあるんですね~。
f0058691_6212059.jpg


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

クズラルアース・ハンの横は、こんな小径。 (ちょっと、お兄さんジャマなんですけどぉ~)(笑)

f0058691_622650.jpg細い路地には、お外に小さなテーブルとイス(座面の低い、トルコならではのもの)がいっぱい並べられたカフェがずらりと並んでいます。

そんなカフェの中から、今回は、こちらに座ることにしました。
カフヴェジ・オメル・ウスタ(Kahveci Ömer Usta)』。


f0058691_6225047.jpgf0058691_6231554.jpg

左:サーレップ(Salep)。以前こちらでも紹介したことがあります。
ランの一種の球根の粉末(サーレップという)を、熱々のミルクと一緒に煮たもの。砂糖もたっぷり、甘~くって美味しい冬の飲み物です。シナモンをたっぷりと振りかけて.....ふぅふぅ♪

右:トルココーヒー(Türk Kahvesi)。ただ、普通のトルココーヒーとは、ちょっと違います。これ、カップごと火にかけて煮だしたもの。その名も、そのまんま、“Fincanda pişen kahve”=カップで煮たコーヒー。
この辺りのカフェでは、カップごと煮出したトルココーヒーが有名なんです。

このお店のサイトによりますと、昔、ミマール・スィナン(Mimar Sinan)(※注2)の時代、コンヤ、カラマンからスコピエやサラエヴォへ、モスクやハマム(トルコ風呂)、隊商宿や橋など、石造りの建築工事に駆り出された労働者たちが、作ったことが始まりなんだそうです。暖をとるために燃やした焚火の、残りの灰の中で、カップごとコーヒーを淹れていたらしいのです。
トルココーヒーは、ジェズヴェ(Cezve)という専用の小鍋で淹れるのが普通なんですけれど、作業中の労働者たちは、手っ取り早い方法を生み出したってことですね。



とまぁ、今回遊びに行った(いえ、正確には犠牲祭のための訪問でした)イズミル。
街は、どんどん綺麗になっているし、新しいシッピングモールや大型店もたくさん出来ていて、その発展ぶりは素晴らしいものがありました。
そして、いつもキラキラ・エーゲ海の太陽!これこそが、イズミル!
もっともっと楽しい場所がいっぱいあるんですけれど、限られた時間の中では、これくらいが精一杯。これ以外のものは、またの機会に。


※注1 1922年の大火事・・・・・第一次世界大戦にトルコが敗れると、ギリシャ軍がイズミルを占領します。その後、1922年9月9日、アタテュルク率いるトルコ軍がこの街を奪還するんですが、9月22日、撤退するギリシャ軍が街の中心地に火を付けた、といわれています。火は数日間燃え続け、イズミルの中心地は灰となってしまったのです。なお、広大な焼跡地は、現在、「イズミル・フアー(İzmir Fuarı)」という広大な公園&見本市会場となっています。


※注2 ミマール・スィナン(Mimar Sinan)・・・・・16世紀に活躍した、オスマン帝国最高の建築家。詳しくは、wikipediaをどうぞ。



関連記事をまとめてみました。
犠牲祭@イズミル パート1
犠牲祭@イズミル パート2
犠牲祭@イズミル パート3

もうひとつ、関連記事を。ディヤルバクルの隊商宿・『ハサンパシャ・ハン(Hasan Paşa Hanı)』。


ブログ・ランキングに参加しています。ポチッと応援よろしくお願いします♪
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 海外生活ブログ トルコ情報へ
[PR]

by yokocan21 | 2011-01-18 06:28 | 旅・散歩  

犠牲祭@イズミル パート3

昨年の犠牲祭に訪ねたイズミル(İzmir)の続きです。
   (以前の記事は、こちら と こちら です)

なんだか、もうとっくの昔の話のようですけれど、お付き合い下さいませ~。

犠牲祭の連休の間は、ぽかぽか陽気の日が多くって、お散歩やぶらぶら外出にはもってこいでした。そんな晴々したある日、久しぶりに訪ねたのが、この建物。
f0058691_22371254.jpg

これ、エレベーターです。トルコ語でアサンソル(Asansör)

場所は、海岸通りに近いミトハト・パシャ通りと、丘の上のハリル・ルファット地区とを結ぶところ。
イズミルの中心地にほど近い住宅地なんですけれど、その辺りって、急な坂道ばかりで、海岸沿いの通りから上の通りに行くには、さぞ大変。特に、お年寄りや子供、妊婦さん達には生活しにくいもの。
そこで、このイズミルに住むユダヤ系の慈善家、ネシム・レヴィ・バイラクルオール(Nesim Levi Bayraklıoğlu)という方が、この地にエレベーター(アサンソル)を建設しようと思いついたのです。
今からかれこれ100年以上も前、1907年のことです。
なんと、当時としては斬新なことを思いつく方がいらしたのですね。

建設当時は、蒸気機関でモーターを動かしていたようです。


f0058691_22374473.jpgちなみに、この辺の坂道に付けられた、延々と続く階段。

相当に旧勾配なのがわかります。

これ、毎日だと、大変だよなぁ.....。



f0058691_2257343.jpgこちら、アサンソルの近景。

背後の絶壁、見えますかぁ?

イズミルのこの辺りは、海からいきなり山、みたいな地形です。



で、このアサンソルに乗って、すぅ~っと、上まで登ってみますとーーー。
こぉんな絶景がぁ~♪

コナック(Konak)やアルサンジャク(Alsancak)方面を眺める。柵やランプの装飾も素敵! 
ここは展望台にもなっていて、カフェも併設されているので、お天気ばっちりなその日は、大勢の人で賑わっていました。
このカフェ、デートスポットでもあって、いつもカップルでいっぱいです。私たち夫婦も、昔は(!)何度かここにお茶しに来たことがありますよ。
f0058691_2258121.jpg



カフェの内部からの眺め。
この横には、夜だけオープンする、ちょっとオサレなレストランもあって、なかなかいい雰囲気なのです~。
f0058691_22583695.jpg



こちらは、対岸のカルシュヤカ(Karşıyaka)地区を眺める。イズミル湾を、の~んびり船がゆく。
f0058691_2259291.jpg


こういう光景を眺めると、ほぉ、イズミル、いいなぁ~~~って思います。
トルコでも、住んでみたい街の人気上位ランクされいますからねぇ。納得ですよね!



ところで、ここ、アサンソル(エレベーター)本体は言うまでもなく、もう一つ有名なものがあります。

f0058691_22594517.jpgこの方。

ダリオ・モレノ(Dario Moreno)さんです。

地元イズミル出身の、往年のシャンソン歌手です。
50年~60年代にかけて、数々の舞台で歌い、何枚ものレコードを出し、また、ブリジット・バルドーとも共演したり、俳優としても大活躍されていたようです。

一番上の写真、左側にある白壁のおうちに一時住んでいたということで、その小径は「ダリオ・モレノ通り(Dario Moreno Sokağı)」と呼ばれています。



ちょっと参考に、こちら、どうぞ。
イスタンブル・ボスフォラス海峡の素晴らしい景色をバックに、ダリオ・モレノの歌声が冴えわたります。



そうそう、我が美輪明宏さん(当時は丸山明宏でした)のお馴染み・『Me Que Me Que(メケメケ)』は、このダリオ・モレノさんも歌っているようですね。 (メケメケのオリジナルは、ジルベール・ベコー)


※このアサンソル、以前は、乗車料金を払っていたんですけれど、今はタダです。そして、アサンソルの中では、ダリオ・モレノさんの曲かと思われるシャンソンが流れていました。


このアサンソルのある地区には、昔ながらの木造建築も残っていて、散策してみると、なかなか面白いエリアでもあるんです。
f0058691_2302034.jpg

2階の窓部分が外に張り出した形の、オスマン朝時代の建物。
これらは、“ルム・エヴィ(Rum Evi)=ルムの家”と呼ばれています。ルム(Rum)とは、トルコ領在住のギリシャ人、という意味で、当時のギリシャ人達が好んで建てた建築様式なんでしょうね。
(背後の高い建物は後になって建てられた、コンクリート造りのものです)


【追記】 この、2階の窓部分が張り出している様式の木造住宅、コメントでも興味を持って下さる方がいらっしゃいましたので、ちょっと補足をしておきます。

2階の窓が外に張り出した形のものを、ジュンバ(Cumba)というんですけれど、このジュンバの付いたオスマン時代の木造建築は、トルコの古い街では、今もよく残っています。ここイスタンブルでも、旧市街やボスフォラス海峡沿いの古くからの町では、まとまって残っていたり。うちの近所にも、何軒かありますよ。
最近は、そういう伝統的な木造住宅を綺麗に修復し、保存する動きも盛んです。

このような様式の住宅は、一般的には「オスマン時代の家(Osmanlı Evi)」という風に呼ばれています。
ただ、イズミルを含めたエーゲ海地方では、元々ギリシャ人が多かったこともあってか、「ルムの家(Rum Evi)」と呼ばれています。

建築については詳しいわけではないですし、特別に勉強をしたこともないですけれど、私の知っている範囲では、こんな感じです。詳しい方いらっしゃいましたら、ご教授お願いします。

エーゲ海地方の、伝統的な家屋は、こちらでも紹介しています。参考までにどうぞ。



ブログ・ランキングに参加しています。ポチッと応援よろしくお願いします♪
人気ブログランキングへ
トルコ情報へ
[PR]

by yokocan21 | 2011-01-07 23:03 | 旅・散歩  

ヒディヴ・カスル

前回記事の続きです。
チューリップを見学に行った、ヒディヴ・カスル(Hidiv Kasrı)、または〝フディヴ・カスル(Hıdiv Kasrı)〟。
アジア側の、第二ボスフォラス大橋を少し北に行った、チュブックル(Çubuklu)という地の小高い丘に建つ瀟洒なオスマン朝時代の邸宅です。

f0058691_3594684.jpg
           白い塔が印象的。

オスマン朝後期の1907年、当時のエジプト知事(総督)でもあった、アッバス・ヒルミ・パシャ(Abbas Hilmi Paşa)が、「夏の家」として建てたもの。設計は、イタリア人のデルフォ・セミナッティ(Delfo Seminati)。
アッバス・ヒルミ・パシャは、「フディヴ(Hıdiv)」(※)という称号をオスマン朝から与えられていたため、この邸宅を、「〝フディヴ(Hıdiv)〟の〝夏の屋敷(Kasrı)〟」と言われています。

20世紀初頭のエジプトは、オスマン朝の支配下にはあったものの、次第にイギリスの影響力が強くなってきた時代。エジプト知事・アッバス・パシャは、オスマン朝の援助を得るため、長期に首都・イスタンブルに滞在することとなり、「夏の家」の邸宅を建設しました。
ちなみに、「冬の家」は、こちらで紹介しています、〝ムスル・アパルトマン(Mısır Apartmanı)〟。

f0058691_411727.jpg
       建物を横から。ここはカフェになっています。

建物は、当時トルコでも流行だったアール・ヌーヴォー様式で、ルネッサンス時代の別荘をイメージしたものだということです。

後ろ部分は、なだらかな曲線になっていて、屋根の下の部分は全てレリーフが施されています。
f0058691_42476.jpg


f0058691_433329.jpg前庭のチューリップ。


f0058691_435943.jpg玄関。


f0058691_444059.jpgファサードの上部。

うっとりするほど美しいフルーツのレリーフとお花の装飾。

装飾は、ゴールド・メッキだそうです。


f0058691_451771.jpg装飾部分のUP。

柔らかいお花の絵と、イスラムちっくなゴールドの装飾が、見事にマッチ。

柱(?)の先には、ゴールドのチューリップが。



f0058691_454543.jpg玄関内側の扉。
エミール・ガレ風のブドウの葉っぱ。


f0058691_462474.jpg噴水のあるホール部分の天井は、ステンドグラス。


f0058691_4653100.jpg内部は、現在レストランとして使用されています。
そのレストラン部分のランプ。


この邸宅は広大な林に囲まれています。その林の中には遊歩道が整備されていて、木漏れ日の中、時々木の間からのぞくボスフォラス海峡を眺めながら散歩できます。
f0058691_473056.jpg


ボスフォラス海峡をゆく貨物船。白い塊が2つあるのは、雲。
f0058691_475298.jpg


と、こんなに素敵な建物なんですよ。
庭園のチューりップや春の花たちを愛でながら、美しいアール・ヌーヴォーの邸宅を見学。そして、林の中で美味しい空気をもらいながらの散歩。とまぁ、春のうららの昼下がりは、こうしてまったりと過ぎていったのでした。

ところで、このヒディヴ・カスルのその後の歴史を少し。
オスマン帝国の援助も空しくイギリスとの交渉は上手くいかず、また第一次世界大戦にオスマン帝国が参戦し破れたため、エジプトは独立したものの事実上はイギリスの支配下に置かれることとなり、アッバス・パシャはフディヴの称号を剥奪され、1931年、スイスに亡命しました。
だけれど、アッバス・パシャの家族はその後も、ここヒディヴ・カスルに住み続けました。
1937年、イスタンブル市がこの邸宅を購入。しかし、長い間放置されたままの状態でした。
1984年に、トルコ・ツーリング自動車クラブが修復し、一時期はプチホテルとして使われていました。
1996年には、またイスタンブル市の所有するものとなり、現在に至っています。


20世紀初頭といえば、オスマン帝国もその支配下のエジプトも瀕死の状態。そんな時代にあってなお、この豪華な邸宅を建てたという財力と根性にあっぱれ。
そして、オスマン帝国と自身の国・エジプト、双方が崩れかけてゆく様を、このパシャは、どのような思いでボスフォラス海峡を眺めたのでしょう。


※ フディヴ(Hıdiv)・・・・・オスマン朝の支配下にあった、エジプトの知事(総督)を代々世襲制にするという制度が1867年に出来、その称号がフディヴ。初代フディヴは、アッバス・パシャの祖父にあたる、イスマイル・パシャ(İsmail Paşa)。 フディヴとは、ペルシャ語で「偉大な大臣」という意味。


ブログ・ランキングに参加しています。ポチッと応援よろしくお願いします♪
人気ブログランキングへ
にほんブログ村へ
[PR]

by yokocan21 | 2010-04-09 04:32 | 旅・散歩  

イスタンブルのアールヌーヴォー建築・その1

ディヤルバクルの建物を紹介したました次は、イスタンブルの建物。

オスマン帝国も後期になると、ヨーロッパからの影響を少なからず受けてきます。
近代化を計る政策としての面は勿論、、文化面でもとても重要な位置を占めてきます。そんな近代化の波の中、イスタンブルの新市街の丘の上、ぺラ(Pera)やベイオール(Beyoğlu)一帯には、こぞってヨーロッパ建築の建物が建てられます。
時は、19世紀末。ヨーロッパでは、アール・ヌーヴォーが華麗に花咲いた時代。

このぺラ地区やベイオール地区には在外公館が建ち並び、外国人が住むエリアでした。そういう背景もあって、近代的な建築物を立てる土壌は整っていたのでしょう。そして、その建物を建てさせた人達も外国人が殆どです。

それでは、現在も残っている数多くのヨーロッパ建築の建物(主にアール・ヌーヴォー様式)を、少し紹介してみます。場所は、新市街・イスティクラル通り(İstiklal Caddesi)。なお、当時の通りの名前は、ジャッデ・イ・ケビル(Cadde-i Kebir)。
今回は、イスティクラル通りの中ほどより下のエリア(トゥネルに近い方面)のものをいってみます。

f0058691_1933079.jpg

こちらが、そのイスティクラル通りの様子。石畳の歩行者専用道になっている通りは、真ん中をレトロな赤い車体の路面電車が走る、新市街の目抜き通り。
f0058691_193598.jpg

ノスタルジック・トラムワイ(Nostaljik tramvay)と呼ばれる路面電車は、木製の車体が可愛い。
(画像は、IETTのサイトより拝借しました)


f0058691_1943573.jpgまずは、ムスル・アパルトマン(Mısır Apartmanı)。訳して、「エジプト・アパート」。

エジプトの総督・アッバス・ヒルミ・パシャが「冬の家」として1905年に建てた邸宅。
設計は、アルメニア人のホヴセプ・アズナヴールヤン(Hovsep Aznavuryan)。

アール・ヌーヴォー様式の均整のとれた美しい姿は、イスティクラル通りでもひときわ目を惹きます。


f0058691_195043.jpg建物中央上部の、アーチ。

ターコイズブルーのタイルが綺麗♪

随所に見られる丸みを帯びた植物の彫刻や装飾も綺麗~。

そして、この建物の最上階(テラス)には、今イスタンブルで人気抜群のオサレ系レストラン・カフェ(夜にはクラブになる)、
360 İstanbul〟があります。
ボスフォラス海峡の絶景が眺められるんだとか。


f0058691_1910728.jpgこちらは、サン・アントイネ・カトリック教会(St. Antoine Katolik Kilisesi )の横にある建物。(名前はわかりません)

中央にマリア様の像が立っています。

イオニア式の柱や、1階玄関横にはコリント様式を取り入れた柱。
玄関の上部には、アーカンサスの葉っぱのレリーフでしょうか。よく見えなくってすみません。


【訂正と追加】
この建物について、仲良くさせて頂いていますmadamkaseさんよりご指摘がありまして、訂正させて頂きます。
この写真の建物は、〝サンタ・マリア教会(Santa Maria Kilisesi)〟の全面にあるものです。サンタマリア・ハン(Santa Maria Hanı)というそうです。場所は、サン・アントイネ教会の横ではなく、通りをもうちょっと下った、オランダ領事館とロシア領事館に挟まれたところです。
すみません、いい加減なこと書いてしまいまして。
そして、ご丁寧に教えて下さったmadamkaseさん、ありがとうございました!

f0058691_17485050.jpgmadamkaseさんより、送って頂いた写真を載せさせて頂きます。

この建物の門をくぐると、中にはサンタ・マリア教会があります。

この教会は、1584年建立のカトリック教会(フランシスコ会)で、元々は丘の下に建っていたものです。
ところが、1660年の大火でイコン以外は全て崩壊してしまい、1678年に現在の場所に再建されたということです。

ひゃぁー、こんなにも由緒のある教会だったのですね。
これは、また再訪しなきゃ!



f0058691_1954932.jpg

こちらも、ギリシャっぽい建物。イオニア式の柱が印象的です。
バルコニーの鉄柵の装飾が繊細で美しい。


f0058691_19154261.jpg上の建物の斜め向かいの小径。

ちょっとオサレなカフェなどが並ぶ、私の好きな小径です。
アスマルメスジト通り(Asmalımescit Sokağı)。

『ジュムバ(Cumba)』という2階の窓部分が外に張り出した、オスマン朝の典型的な建築です。

窓部分は、よーく見ると、綺麗な装飾が施されているんですよね。



f0058691_19161440.jpgで、最後は、このエリアでは一番の見ごたえある建物。

ボッター邸(Botter Apartmanı)です。

スルタン・アブドゥルハミトの宮廷仕立て師だった、オランダ人のジャン・ボッター(Jean Botter)が、1900年に建てた邸宅。アトリエ兼住宅だったようです。
設計は、イタリア人建築家・ライモンド・ダロンコ(Raimondo D’Aronco)

ちなみに、この建物、現在は使われていません。痛みが相当にひどいですので、修復が待たれます。


f0058691_1916472.jpgこちらも、随所にアールヌーヴォー様式が見られます。

これは、建物右下にある玄関部分。

美しい曲線で描かれたバラの花や植物のツタでしょうか。うっとり。


f0058691_19171392.jpg
バラの花部分をUPで。


f0058691_19173244.jpg
こちらは、5階と6階の間部分にある装飾。
装飾は、左右対称で、写真は右側のもの。

メドゥーサの頭です。
窓と窓の間にも、細かい植物の装飾が。


ところで、このライモンド・ダロンコという建築家は、19世紀末から20世紀初頭のイスタンブルの建築を語るのにははずせない人なんです。
イスタンブル市内のあちこちに見事な建築物を残しています。いつか、紹介出来るといいなぁ。

ということで、オスマン帝国末期に花咲いたアールヌーヴォー様式の建物たち。
イスティクラル通りを中心としたエリアをそぞろ歩きする時は、上の方も眺めて歩くと、色んな発見があってとぉっても楽しいのです♪


ブログ・ランキングに参加しています。ポチッと応援よろしくお願いします♪
トルコ情報へ

人気ブログランキングへ
[PR]

by yokocan21 | 2009-03-09 19:24 | 旅・散歩  

懐かしのディヤルバクル・「ハサンパシャ・ハン」

前回、アダナ(Adana)のことを書いていたら、何だか急にディヤルバクルが恋しくなってきました。
アダナとディヤルバクル、この二つの町には全く接点はないんですけれど、私的には、イスタンブルに引っ越して来るまでの4年間を過ごしたディヤルバクルと、その滞在中に訪ねた町・アダナ、という勝手な繋がりを持っています。
ということで、懐かしいディヤルバクルを蔵出し写真より紹介してみることに致します。

以前書いたこちらの記事でも紹介しています、ハサンパシャ・ハン(Hasan Paşa Hanı)
f0058691_173459100.jpg

オスマン朝時代、ディヤルバクルの第3代知事・ハサンパシャによって、1573年に建てられた、隊商宿(キャラバンサライ)兼商業館です。当時は、隊商宿として使われていたほか、貴金属商やリネン商たちの商店街も兼ねていたそうです。
建物は、ディヤルバクルらしい白と黒の縞々模様。(黒い石は玄武岩。白い石は「?」)

私たちがディヤルバクルに引っ越した当時は修復中で、外観はかなり朽ち果てて汚れた感じで、近付き難い印象がありまし。ところが、、2007年の秋に修復が終わり、内部も全面公開されたときは、とっても明るく親しみやすい印象に変わっていました。

広々とした中庭の中央には、泉があり、オープンエアのカフェがあり、中庭をぐるりと囲む建物には、絨毯屋や骨董品屋、お土産物屋などが並んでいます。

f0058691_17355028.jpg

また、急な階段を上った2階にもカフェやお店が並び、何だか当時の華やかさが偲ばれるような感じ。
これは、2階のカフェの様子。(ダンナと子供が寛ぐ、の図)


f0058691_17392362.jpgこちらは、2階の内部部屋の天井。

天井はドーム型になっていて、小さな石が行儀よく積み重ねられています。
外壁の重厚な印象とは打って変わって、淡い色目で穏やかな雰囲気です。

真夏のディヤルバクルには灼熱の太陽が降り注ぎ、とても外を歩けるような気候ではないんですけれど、ここは重厚な石造り。内部はひんやりと、涼しいくらいなんです。


f0058691_1740341.jpg

これは、中庭のカフェ。(写真撮った時期は、上の3枚とは異なります)
ここは、ディヤルバクル県の女性救済団体(DVの被害にあった女性達を救う団体)が経営しています。
トルコの東の地方はまだまだ封建的で、女性の地位が低く、夫から暴力を受ける女性も後を絶たないという現実。このカフェや、建物の地下にあるレストラン(ディヤルバクル伝統料理を出します)では、そういう被害を被った女性達の自立を目指して、雇用をしている、ということです。
たまたまお話を伺った女性が、このカフェのマネージャーさんで、色々と教えて下さいました。

f0058691_1745567.jpgこちらは、ハサンパシャ・ハン内(この中庭のある建物の横に繋がった建物)に広がる貴金属商店街。

オスマン帝国時代の名残ですねぇ。
とにかく、ゴールドの雨あられ。

ちなみに、トルコでは、金(ゴールド)は換金性のある財産として扱われています。



その昔は、さぞかし華やかな町だったであろうディヤルバクル。このような建築物を見るだけでもその辺りがうかがえます。

こうやって一つの建物を眺めるだけでも、懐かしい思いでいっぱいです。ディヤルバクル記事は、折りを見てまた書いていこうと思います。

※ディヤルバクルに興味のある方、右側ずっと下の『タグ』内にある『ディヤルバクル』を見てみて下さい。色々と紹介しています。また、ディヤルバクルの概要を知りたい方、HPで書いておりますので、参照下さい。


ブログ・ランキングに参加しています。ポチッと応援よろしくお願いします♪
トルコ情報へ

人気ブログランキングへ
[PR]

by yokocan21 | 2009-03-03 17:46 | ディヤルバクル  

マルディン紀行・8(建物考)

マルディン紀行、再開いたします。
今回は、マルディン(Mardin)のある建物を中心にお話してきたいと思います。
旧市街の東の端に近いあたり、崩れかけた城門の近くにある、元ケルバンサライ(隊商宿)を改修した、『アルトゥクル・ケルヴァンサライ(Artuklu Kervansaray)』というホテルです。
とぉっても素敵な建物ですので、ホテルの宣伝という点ではなく、あくまでも〝建物の紹介〟という点でお話していこうと思います。
(といっても、ホテルもすごーく素敵なんですよ!私達が訪ねた時は丁度イスラムのお祭り(バイラム)だったためか満室だったようで、トルコ人にとっても人気のプチ・ホテルなんですよ)
f0058691_1754546.jpg

アルトゥク朝時代の1275年建立の建築物です。
外観は、典型的なマルディン地方の様式です。この様式、正確には何と呼ばれているのかわからないんですけれど、私は勝手に〝シュリヤーニ様式〟と呼んでいます。←ちょっと強引
というのは、こういう様式の建物って、ここマルディンだけではなく、お隣の町・ミディヤット(Midyat)でもよく見かけるからなのです。そのミディヤットという町も、マルディンと同じく古くからシュリヤーニ(シリア人)が多く住んでいた町。シュリヤーニ文化の土壌のある町なんです。

7世紀以降、町はイスラム化が進んでいったのですけれど、これらの町のシュリヤーニ人達は、自分達の独自の文化を守り続けていくことが出来たらしいんです。
この建物は、イスラム王朝のアルトゥク朝時代に建てられたものですけれど、イスラムらしさは殆ど感じられないですよね。それもそのはずで、元からこの町にあったシュリヤーニ文化の上に成り立った建築様式だからなんです。

こちらは(↓)、2階部分のテラス。オープンエア・カフェとして利用されています。
f0058691_17552676.jpg

壁に施されたレリーフが素晴らしいです!
このアーチ状の部分は、イスラム建築を見慣れた目には、モスクのミフラープ(メッカの方向を示す壁がん(ニッチ))を連想してしまいがちです。
でも、この地では、イスラム教が興るずっと昔からシリア正教会の信仰が盛んだったわけで、イスラム教は後から入ってきたものなんですよね。実際、イスラム教が興ったのは7世紀初頭の頃です。
また、シリア正教会の教会内部正面には、このようなミフラープの作りとそっくりな壁がんが設えてあるんですよね。
その辺り、こちらの記事こちらの記事の教会内部の写真を見ていただくと、よくわかります。

私の勝手な推測なんですけれど、元々このような壁がんはシリア正教会の教会で使用されていたものが、その後興ったイスラム教のモスクに影響を与えた、というもの。
もっと他の地方(イスラエルやシリア辺り)の教会も見てみないと、ちゃんとしたことは言えないとは思うのですけれど、キリスト教とイスラム教のまさに交じり合ったこの場所を見る限りでは、そう感じられずにはいられないんですよねぇ。
あくまでも素人の勝手な発想ですので、このあたり、詳しいことをご存知の方いらっしゃいましたら、どうか教えて下さいませ!

こちらは(↓)、テラスに続く部屋。
f0058691_17555737.jpg

壁に沿って、床にズラリと座布団というのかクッションが並べられているインテリアは、アラブ風。
トルコ人も、昔は床に座る生活だったんですよね。ところが近代化と共に、現在はイス文化がメインになっています。でも、今でも田舎の方へ行けば、このように床に座る生活をしている人たちは大勢いますよ。
このお部屋では、寛いでお茶を飲んだり出来るようです。

《部屋の真正面の、壁にかけられた銅版のお皿のモチーフ、よく覚えておいて下さいね。(ちょっと見にくいですけれど...)これ、次回の記事のメインテーマとなりますので》

f0058691_17563436.jpgこちらは、テラスの壁のレリーフ。

教会の記事でも、紹介しましたけれど、このような繊細なレリーフは、とってもマルディンらしいです。
イスラム王朝の時代に建てられたとは思えない、イスラムらしさを感じることが出来ないレリーフですよね。ほんとに不思議です。


不思議といえば、もうひとつ。
このテラスに面した壁の一部に、いわゆる〝ダビデの星(六芒星)〟のレリーフが施されていたことです。
「ん、何で?」と思って、案内して下さったホテルのマネージャーの方に尋ねてみると、このモチーフは、〝お守り・おまじない〟の意味なのだそうです。

で、後でそのことを調べてみましたら、〝ダビデの星〟は今は一般的にはイスラエルを象徴するものとして知られているものですけれど、昔の時代にはそういう意識はなく、〝ソロモンの封印〟という意味の〝お守り〝であったそうです。 (ソロモンは父のダビデと共に、イスラム教では預言者の一人と数えられていて、偉大な人物として崇められているんですよ)
そういえば、トルコのキリムや絨毯のモチーフにも〝ソロモンの封印〟という星のモチーフがありますねぇ。
なんだか、とっても興味深いお話で、思いは遥かダビデやソロモンの時代へ~~~!繋がっているんですよねぇ。

そのモチーフの写真、私の腕では上手く撮れなかったですので、代わりに、このホテルのお隣にある、メリク・マフムド・ジャーミィ(Melik Mahmud Camii)の壁に施されたモチーフを載せておきます。
モスクの壁に、ダビデの星、だなんて、とっても意外ですよねぇ。でも、お守りの意味合いなんですよねぇ。
f0058691_17572919.jpg


こちらは(↓)、ホテルのロビー。修復されてはいますけれど、重厚な石造りは歴史を感じます。
f0058691_17575411.jpg


最後は、テラスから眺めた、お隣、メリク・マフムド・ジャーミィ(Melik Mahmud Camii)
f0058691_17583338.jpg


途中、何度も脱線をしながらのマルディン紀行でしたけれど、今回で一応最終回とさせて頂きます。
色んな方面から見てきましたマルディン、他にはない独特な魅力を感じて頂ければ、とっても嬉しいです♪

では、追加として、 続きへどうぞ~。


ブログ・ランキングに参加しています。ポチッと応援よろしくお願いします♪
☆トルコ情報☆


☆人気blogランキング☆


《続き》
[PR]

by yokocan21 | 2008-04-19 18:06 | 旅・散歩  

シリンジェ村

久しぶりに旅のお話でも。
といっても、ここ最近は寒すぎてウロウロと旅どころではありませんので、昨年の夏に訪ねた所を紹介してみたいと思います。

昨年の夏は、ダンナの実家のあるエーゲ海岸の街・イズミールや、南エーゲ海のリゾート町・ボドルムと合わせて、エーゲ海地方の楽しい町や遺跡なども巡ってきました。
そんな中でも、ひときわ異色な存在、シリンジェ村(Şirince)を今回は紹介します。

トルコ観光のハイライト的存在でもある(ツアーでは必ず立ち寄ります)エフェス遺跡(Efes)の近く、セルチュクという小さな町から、山あいを目指して約8km。
途中、オリーブ林や桃の畑などを眺めながら、くねくね山道をゆき、もうそろそろかなぁと思った頃、山の斜面に白壁にテラコッタ色をした屋根の家々が見えてきます。そこがシリンジェ村です。
トルコ語で、〝可愛い〟を意味する「シリン」な村。その名の通りの可愛らしい雰囲気のする、温かい村です。

丘の上から見た、シリンジェ村。
f0058691_6545155.jpg


昔の名前をクルクジャ(Kırkıca)というこの村の歴史は、5世紀頃にまで遡るそうです。
当時からオスマン朝時代に至るまで、人口のほとんどがギリシャ人でした。
ところが、トルコ共和国誕生後まもなくの1924年、住民の強制移住のために、この村のギリシャ人住民はギリシャへ、代わりにギリシャ在住のトルコ人がこの村へ移住してきました。

f0058691_656576.jpgこの村の典型的な様式の家。

白壁に濃い茶色の格子戸がはまった独特の様式の、このような家は「ギリシャ式の家」と呼ばれています。

2階部分が1階部分よりも突き出ている建築は、オスマン朝時代のものでもよくある様式です。
2階の突き出ている部分のことを、ジュンバ(cumba)ということから、ジュンバル・エヴ(cumbalı ev)という言い方をします。

朽ち掛けた家もあちこちに見られるんですけれど、最近は、この村に魅せられた人たちが買い取り改装して住居にしたり、また、ペンションやレストランとして甦らせたり、ということも行われているようです。


f0058691_6564178.jpgギリシャ式の家々が建ち並ぶ細い路地。

最近は、雑誌で紹介されたりと、トルコでは人気のスポットとなっていまして、2年前に訪れた時よりも、観光客は断然増えていました。
村のメインストリートである狭い石畳の道沿いには、以前よりもカフェやレストラン、土産物屋などがすごぉく増えていて、観光地そのものの様相でした。

それでも、道ですれ違ったおじいさんやおばあさん達は、「ようこそいらっしゃーい!」などと快く挨拶してくれて、有名になっても、温かい人情は変わらず、のようです。


f0058691_65719100.jpg「アルバニアの石畳(Arnavut kaldırımı )」と呼ばれている、石畳が風情を醸し出しています。

民家の脇には、オレンジの木が植わっていたり、庭には色んなハーブが生えていたり、ロバや羊に遭遇したりと、の~んびりのどかな村。

道路脇では、以前は、花柄の手刺繍が入ったテーブルクロスやベッドカバーなどがよく売られていたようなんですけれど、最近は、機械刺繍のものが幅を利かせています。うーむ、残念。



村で採れるハーブを売るお店。
f0058691_6583239.jpg

セージやタイム、ラベンダーが並べられていますね。
あと、村の特産品のオリーブ油石鹸を売っているお店もよく見かけます。

そして、この村は、桃の産地としても有名だそうで、ここの市場で買って食べた桃の美味しかったこと!大きくって、甘くって、とってもジューシーで、、あれは今まで食べた中でも1.2の美味しさでしたぁ。
もっと買ってくればよかったねぇ、なんて、後で義母やダンナと嘆いたもんです。

こちらは、数あるワインショップの中の一つ、akberg。 ←ちょっとオサレなHP。
f0058691_6593427.jpg

元々ギリシャ人が住んでいた村ですから、ワイン作りが盛んだったわけで、その後移住してきたトルコ人たちも、そのワイン作りを引き継いだということです。
試行錯誤して、今ある品質にまで高めていったらしいです。

このお店のワイナリーは、オーナーさんがドイツ人で、そのオーナーの管理の元、美味しいワインが作られています。
ここディヤルバクルでも、このメーカーのシリンジェ・ワインを扱うお酒屋さんがあって、我が家もよく利用するんですけれど、ここは流石に本家本元、種類も豊富だし、お値段もお手頃。
お店のお兄さんと色々とお話などしながら、試飲をさせてもらいながら、気に入ったものを選べます。

そして、この村では、フルーツ・ワインも多く作られていて、サクランボやイチゴに桃、ブルーベリーやブラックベリー、ラズベリーなど、色々。
プレゼントとして頂いたシードルも、さっぱりと美味しかったです。

f0058691_701915.jpg私たちが購入したワインたち。

左から、ブルーベリー・ワイン、
emir(エミル)種のブドウから作った白、
Kalecik Karası (カレジック・カラス)種のブドウから作った赤。
ちなみに、赤は軽めのフルーティー、白はさっぱり系。

この写真は、旅から帰って来てすぐに撮ったものです。



そして最後に、村の一番高い丘の上には、小さな教会(St.Jean)も残されているんです。
訪ねた時には、アメリカの団体によって修復作業が始まった、という掲示版が出ていました。
以前に訪れた時には、朽ち果てて可哀想な姿でしたので、嬉しい情報です。

エーゲ海地方の陽気な陽射しの中で、そこだけがホッと落ち着いた佇まいを見せる、居心地の良い、温かみのある村でした♪

ブログ・ランキングに参加しています。ポチッと応援よろしくお願いします♪

トルコ情報


☆人気blogランキング☆

[PR]

by yokocan21 | 2008-02-23 07:07 | 旅・散歩  

ハラン(シャンルウルファ近郊の村)

ウルファに行ったなら、この村を訪れないわけにはいきません。というほど、超有名な村があるんです。
ウルファの町から南に44km、とんがり円錐形の土の屋根が特徴的な家々が並ぶ、これまた歴史ある村、ハラン(Harran)です。

こちらは、村の全望。どこまでも続く茶色い大地や緑の畑の中に、突如としてその村は現れます。
f0058691_81022100.jpg

ハラン平原と呼ばれるこの辺りは、『GAP』(※注1)という一大灌漑プロジェクトのため、緑豊かな畑が続いています。主に、麦や綿花、唐辛子などが栽培されているようです。とぉっても豊かな大地なのです。

と、ここでいつものように、ちょっとハランの歴史を紹介。
ここも例に漏れず、相当に古い歴史があります。
旧約聖書に〝Haran〟という名で登場する町は、この町のことだと言われています。アブラハムがパレスティナのカナンの地へ移動する途中で立ち寄った町、とも言われています。
ハランとは、シュリヤーニ語(※注2)で、「旅する隊商」の意味の〝Haran-u〟からきているそうです。

この地が歴史に登場するのは、紀元前2000年頃のこと。紀元前2000年頃のヒッタイトの粘土板に、ヒッタイト王国とミタンニ王国の同意により、ハランにある月の神(Sin)と太陽の神の存在が証言された、ということが記されているということです。

この町は、アッシリア帝国の主要な交易地として大いに栄えました。また、町は、月や太陽、宇宙を信仰の対象としたサビアン教(Sabiizm)(※注3)の中心地としても知られていました。そのため、天文学も大いに発達していたようです。
このサビアン教は、11世紀に至るまで、この町で信仰が続けられたそうです。

アッシリア帝国の崩壊の後は、ペルシャ帝国(アケメネス朝)の支配下に入ります。その後、ローマ帝国やウマイヤ朝、続くアッバース朝と支配され、このアッバース朝時代には大学も造られたそうです。
その後は、ファーティマ朝、ザンギー朝、アイユーブ朝、セルジューク朝とイスラム国家に支配され、1260年にはモンゴル軍の襲撃を受け、その後の10年の間モンゴル軍によって町は焼き尽くされてしまいます。
その後オスマン朝の支配下となるも、町は過去の栄光を取り戻せないまま、現在に至ります。


ハランの家。
f0058691_8122782.jpg

何とも個性的な、面白い屋根をした家です。これらの家は全て手造りで、日干しレンガを積み上げ、土と泥で出来ているんだそうです。
この地方は、真夏には50℃以上にもなる超激暑地帯。なので、涼しく過ごせる工夫が見られるんですよね。太陽熱を最小限に受けるようにとの、とんがり屋根。実際、中はとってもひぃ~んやり。

f0058691_8131444.jpgこちら、屋根のUP。



f0058691_8141178.jpg中の様子。

てっぺんに空気穴が開いています。

この村では、新たに円錐形の屋根付きの家を建てることは禁止されているそうで、村に数少ない職人さんは、屋根の修理をするのみなのだそうです。
最近は、海外からの援助でかなりな数の屋根が綺麗に修理されていました。
以前訪れた時は、もっとぼろぼろでした....。

そして、今はこれらの家に住むことはなく、主に倉庫として使われています。
一部のお宅では、観光客に開放し、貴重な収入源にもなっているようです。
(私達が訪ねたのも、観光客用に開放されたお宅のところ)


ちなみに、現在のハラン村の住人は、殆どがアラブ人。トルコの他の地域では見かけることのないような原色系の衣裳を着た女性たちが多く、年配の女性には手にタトゥーを入れている人も。とっても綺麗な衣裳でしたので、一緒に写真を撮ったのですけれど、その写真がなーい。がび~ん。

村の横にある、城塞
f0058691_8144941.jpg
この町は、周りを城壁で囲まれた町だったそうですけれど、今は一部の門を残して殆ど残っていません。
この城塞は、元々あった城壁の一部として建てられたもので、現在残っているものは、1059年、アラブのファーティマ朝によって改築されたもの。
以前訪れた時に中を見て周ったのですけれど、今はあまりにも保存状態が悪くて、村の人たちが、岩が落ちてくる危険があるので近寄らないように、と言うので、外から見るだけに。

元々のハランの町は、今の村(とんがり屋根のある村)の横に位置していたようです。一応、町の跡らしき石がゴロゴロしています。

ハラン村の郊外にある、ウル・ジャーミ(Ulu Cami)跡。 (画像は、シャンルウルファ県発行の年鑑(1997年度版)より) (情けないことに、デジカメの電池が切れてしまって、これ以降の写真撮れず...です)
f0058691_8161818.jpg

ウマイヤ朝時代後期、744~750年に、マルワーンⅡ世により建立されたもの。
元は、〝Cami-el Firdevs〟(〝天国のモスク〟の意)と呼ばれ、木製のドームの付いた立派なモスクだったようです。でも今は朽ち果て、ミナレット(尖塔)と僅かな部分を残すのみ。

さらさらーっと見てきましたハラン、その昔はさぞかし繁栄したんでしょうけれど、現在の姿は無残です。当時の町のあった所は、あちこち発掘されているんですけれど、遺跡と呼べる程のものではないですね。
その当時を偲ぶには、あまりにも想像力が必要すぎて、私などにはちょっと無理でした.....。

これで、シャンルウルファ紀行はおしまいです。長々と(途中脱線もあり)お付き合いありがとうございました!
ハラン村のこと、続きは、↓↓↓ です。


※注1 GAP・・・〝Güneydoğu Anadolu Projesi〟の略。「南東部アナトリア・プロジェクト」。ユーフラテス川、ティグリス川に挟まれた南東部地方の一大灌漑、電力、農業事業。ウルファ北にあるアタテュルク・ダム(トルコ最大)を中心に灌漑、発電が行われている。

※注2 シュリヤーニ語・・・イエスが話していた〝アラム語〟の一種。〝シリア語〟と呼ばれている。

※注3 サビアン教・・・サビアン占星術はここからきているのでしょうか。世界一古い宗教だと言われているミトラ教との接点もあるようなんですけれど、よくわかりません。どなたかヘルプ~。

ブログ・ランキングに参加しています。ポチッと応援よろしくお願いします♪



☆人気blogランキング☆


【続き】
[PR]

by yokocan21 | 2007-12-07 08:26 | 旅・散歩  

シャンルウルファ・美味しいもの編

前々回の記事の続き、ウルファ紀行・続編です。
ここウルファも、ガーズィアンテップ同様、食い倒れの町。早速食べに出掛けてみましょう~。

ウルファといえば、先ずチー・キョフテ(※注1)が有名なのですけれど、今回は何故かパス。
それ以外のウルファ名物で迫ってみました~。

まず、レベニ(Lebeni)(手前)という冷たいヨーグルトのスープと、ボスタナ(Bostana)(奥)というサラダ。
f0058691_20145450.jpg

レベニは、ヨーグルトに茹でた麦やヒヨコ豆の入った、南東部地方でよく見かける冷たいスープです。暑い地方ならではの、さっぱりとした具沢山スープで、後味もすっきり。
ボスタナも南東部地方のサラダで、たぶんウルファの名物だと思います。細かく切ったトマトやキュウリ、青唐辛子や青ネギ、ミント、パセリなどが入った、ちょっとピリッとした爽やかサラダです。もちろん、ザクロシロップ(※注2)がふんだんにかかっていて、お肉料理にはピッタリの、私の大好物。

フンドゥク・ラフマージュン(Fındık lahmacun)イチリ・キョフテ(İçli Köfte)。温かい前菜として出てきます。
f0058691_20154834.jpg
ラフマージュンはこのブログで何回も登場しているんですけれど、薄~いピザ生地のような皮にスパイシーな挽き肉やトマトソースなどを乗せて、石釜で焼いたものです。これは、普通のラフマージュンよりも小型なために、〝小さな〟とか〝可愛い〟という意味のある〝フンドゥク〟・ラフマージュンと呼ばれています。
ちなみに、〝フンドゥク〟とはへーゼルナッツのこと。
ラフマージュンは、こちら や こちら でも紹介しています。

イチリ・キョフテは、スパイシーな挽き肉と砕いたクルミをブルグル(ひき割り小麦)で包んで揚げたもの。
どちらも、ここウルファのお料理として超有名で、ケバブ屋さんの定番前菜です。

私のメインは、やっぱりこの町の名物、ウルファ・ケバブ(Urfa kebabı)
f0058691_20175385.jpg
ウルファといえば、とにかく〝辛い〟ものが多い町なんですけど、このケバブは全く辛くはなし。
シンプルな挽肉のケバブです。横に見えているラワシュという薄~いナンのようなものでクルリと巻いて食べるととっても美味しいんですよ。

f0058691_2018301.jpgデザートもこの町の名物で。シュルルック(Şıllık)というもの。

クレープ生地で砕いたクルミをクルクル巻いたものに、甘~いシロップがかかっています。ピスタチオのパウダーのトッピング。

これ、美味しかったんですよね~。
クレープ生地というのも珍しくって、歴史的に見て、遠い昔にフランスの影響を受けたことがあるからかなぁ、なんてことを考えてみたり...。まぁ、全く関係ないんでしょうけれど。
こういうの、家でも作れるなぁ、と思ってみたり。
思ったほど甘くなく、あっさりと食べやすかったです。バクラヴァよりは断然お気に入り!


ちなみに、このレストランで使われているテーブルクロス、とっても素敵な模様ですよね。この地方ならではのデザインなのだそうです。

ひぃ~、今回も食べましたぁ。
お昼に訪ねたこのレストランは、ウルファの伝統建築のお屋敷を改装して造られたもので、なかなかに雰囲気も良く、しかも、ウルファ城や聖なる魚の池やモスクの真ん前という絶好のロケーション。
途中、道を尋ねた警官のおじさんに教えてもらったお店なのですけれど、ただ、この場所柄、やっぱり観光客相手のお店なんですよね、お味の方はいまひとつ...かな。ケバブはここディヤルバクルで食べるものの方がずっと美味しいです。
ま、3階のテラスからあの景色を眺めながら食事が出来た、というだけでも良かったと思わないといけないですね。
なので、お店の紹介はあえて致しません。

で、このレストラン・Çardaklı Köşk(チャルダクル・キョシュク)の様子。
建物自体は、さほど古いものではなさそうですけれど、随所に施されたウルファらしい彫刻が素敵でした!
f0058691_2020230.jpgf0058691_20203485.jpg



f0058691_20213050.jpgウルファの伝統的なお屋敷といえば、こちらもとっても魅力的でした。

Konuk Evi(コヌック・エヴィ)という、元県の迎賓館だったところを、改装してプチホテル&レストランとしてオープンしたものです。

この町の建物は、全体的に白っぽく、石灰岩で造られたものが多いそうです。
ディヤルバクルの黒っぽい玄武岩の建物に比べると、光に映えてとても明るいのが印象的でした。
このお屋敷も、至る所にウルファらしい彫刻やレリーフが施され、またまた立ち止まっては見惚れる...の繰り返しです。

お昼を食べた後でしたので、お庭のカフェでお茶だけ。



以前に訪れた時も、あちこちと見て周ったはずのウルファなんですけれど、今回改めて訪ねてみるとまた新しい発見がたーくさんあって、またまた感動~。歴史に彩られたエキゾチックな独特の雰囲気と、人々の温かさや美味しいものたち、何度訪れても飽きないなぁと思う日々です。
トルコって、面白い町が多すぎです!

で、次回はウルファ近郊にある、〝あの〟村へーーー。  <つづく>


※注1  チー・キョフテ・・・生の挽肉とブルグル(挽き割り小麦)、唐辛子ペースト、トマトペースト、玉葱、ニンニク、香辛料などを混ぜて、こねこね、かなりの時間捏ね合わせて、肉団子状にしたもの。とぉっても辛いのが特徴です。チー・キョフテ(Çiğ köfte)とは、〝生の肉団子〟という意味。
過去の記事では、こちら や こちら ・こちら を参照して下さい。

※注2  ザクロシロップ・・・ドロッとした少々甘く、酸っぱいシロップ。サラダにかけるのが一般的です。こちら を参照して下さい。

【関連記事】
・シャンルウルファ・聖なる伝説の町を歩く
・シャンルウルファ・旧市街散策
・ハラン(シャンルウルファ近郊の村)

ブログ・ランキングに参加しています。ポチッと応援よろしくお願いします♪



☆人気blogランキング☆

[PR]

by yokocan21 | 2007-11-28 20:31 | 旅・散歩