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母の日と修復中のモスク

嬉しがりは、こういう写真を載せてみたくなるんです。
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これ、先日の『母の日』のプレゼント。From ダンナ。
いつも母の日は、子供がカードや絵をプレゼントしてくれる程度で何も無しなんですけれど、今年は何を思ったか、こぉんなに素敵な花束アレンジメントが~~~!嬉しっ♪

「何となくお花をプレゼントしたい気持ちになったから.....」とダンナは言ってますけれど、根性悪い私は、「ふふーーん、バレンタインの償いね、ぐっふふ」と裏読み。今年のバレンタインは、いつものように花束のプレゼントではなく、ケバブ屋さんでお食事だったんですよね。
ケバブは私の希望でもあったんですけれど、ダンナ的にはやっぱりお花を贈らないと気が済まなかったのか。可愛く素直に喜んでいればいいものを、アマノジャクな性格がどうも災いします。(笑)いや、素直に嬉しいんですよ、本当は、ふふっ。

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で、こちらは、子供からのプレゼント。学校の図工の時間に作ったという、カードとネックレス。
カードには、私の好きな「恐竜」のシールが貼られています。(カードの左上にあり。右側にそのUP)
実は、スペル間違いもあるんですねぇ。急いでいてついつい.....なんて言い訳してましたけれど。ネックレスは、先週学校で行われた「縁日(Kermes)」で買ってきてくれたのだそうです。
ちゃんとラッピングもされていて、嬉しいですね~♪

今年は、嬉しいサプライズで、ちょっとウルウルな母の日でした!

*:…:*:…:*:…:*:…:*:…:*:…:*:…:*:…:*:……:*:…:*:…:*:…:*:…:*:……:*:…:*:…:*:…:*

で、ここからが本題です。

その母の日の前日、久しぶりに旧市街の方へ行って来ました。
ファーティフ(Fatih)という、昔ながらの風情を残す古い地区です。
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まずは、この立派な水道橋。
日本では『ヴァレンス水道橋』と呼ばれているんですけれど、トルコでは『ボズドーアン・ケメリ(Bozdoğan Kemeri)』。訳して「灰色の鷹のアーチ」。
旧市街の大通りをまたぐように架かっています。

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この水道橋は、イスタンブルがローマ帝国の領土であった時代(当時の街の名はコンスタンティノポリス)の378年に、ウァレンス帝が完成させたものです。
その後もビザンティン帝国・オスマン帝国の時代も、修復をしながら引き続き使用されました。
ローマ帝国・ビザンティン帝国時代には、郊外の森から水を引いてきていたようですけれど、オスマン帝国時代になると、もっと郊外の森から水の供給がされていたようです。


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こちらは、スルタン・メフメット2世のモスク。『ファーティフ・ジャーミィ(Fatih Camii) 』。
現在、イスタンブルの歴史あるモスクの多くは修復作業がなされていまして、こちらも例に漏れず。もしかして...と思って訪ねてみたら、やっぱりそうでした。
建物をグルリと幕で覆われていますので、概要は全くつかめませんよね。参考にこちらをご覧下さい。
また、内部も修復の足場が所狭しと建てられていましたので、撮影は無理でした。ここは修復が終わり次第、また訪ねてみないと。

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スルタン・メフメット2世(Sultan Ⅱ. Mehmed)
このイスタンブルの歴史を語るにははずせない人物です。即位2年後にして、時のビザンティン帝国の華やかし都・コンスタンティノープルを陥落させた、栄えあるスルタンです。
1453年5月29日、この悠久の都は1000年以上も続いた主とお別れ、新しい主を迎えることとなったのです。
当時、スルタンは若干21歳。インテリジェンス溢れる創造力と統率力、それに寛容性をも持ち得た君主だったようです。また、メフメト2世は別名、『征服者スルタン・メフメト(Fatih Sultan Mehmed)』とも呼ばれていて、トルコではこちらの呼び名の方が一般的です。
このコンスタンティノープル陥落の件、そしてスルタン・メフメット2世の人柄などは、塩野七生さんの著書『コンスタンティノープルの陥落』で詳しく描かれています。

なお、画像は二つ共、wikipediaより拝借しました。

ファーティフ・ジャーミィは、ビザンティン帝国時代に教会があった場所に、征服者(ファーティフ・Fatih)メフメト2世が1463~1470年にかけて建立したモスクです。
ところが、1766年の大地震で大きな被害を受け、1771年にムスタファ3世によって再建されました。ですので、現在の建物は建設当時のものではなく、オリジナルに忠実に再現された建物ということです。

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モスクの敷地内にある、お墓。糸杉の林の中に、高貴な方々のお墓が集まっています。

f0058691_1861586.jpgメフメト2世の霊廟(Türbe)。

お墓に隣接して建っています。

敬虔な信者の多いファーティフ地区ということもあって、中はものすごい混雑でした。
流石にメフメト2世の霊廟だけあって、すごーく豪華な装飾でした。
あまりにもの人で、迷惑になるんで写真は撮らず。

この霊廟の向かいには、奥方のギュルバハル・ハトゥン(Gülbahar Hatun)の霊廟がありました。
ギュルバハル・ハトゥンは、次代のスルタン・バヤズィット2世の母后でもあります。


オスマン帝国では、数あるスルタンの妻の内、産んだ息子がスルタンになれば、その母は「ワーリデ・スルタン(=スルタンの母后)」として称えられます。
帝国の中期以降は、ワーリデ・スルタンが絶大なる権力を持つ事になり、国を動かす絶対的な存在として君臨することになるんです。が、メフメト2世の時代には、まだそういう風潮はなかったのか、ギュルバハル・ハトゥンの霊廟は、いたってシンプルなものでした。


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こちらもまた、修復中。『ゼイレッキ・ジャーミィ(Zeyrek Camii)』。
元は、ビザンティン帝国時代に建てられた、『クリスト・パントクラトル教会(Christ Pantocrator Kilisesi)』。1118~1124年に建てられた、聖堂と礼拝堂からなる教会です。

ここは、イスタンブルを征服後、初めて神学校(Medrese)が置かれた場所でもあります。その後、神学校はファーティフ・ジャーミィの中のキュルリイェ(Külliye)(※)に移転したため閉鎖され、モスクとして使用されました。

f0058691_1884658.jpg建物の横から。

ビザンティン建築らしいドームや窓が見えます。
赤レンガを使っているところも、ビザンティンらしいですね。

イスタンブルには、オスマン帝国時代にモスクに替えられたビザンティン教会が多く残っています。
それらも色々と紹介してみたいですねぇ。


また、このゼイレッキの辺りには、古い木造住宅が多く残されていて、その殆どは朽ちてしまっているんですけれど、中には綺麗に修復して使われているものもあって、なかなかに情緒のある界隈でもあるんです。
それら木造住宅も、真骨頂というべき地区がありますので、機会があれば紹介してみたいです。

修復中の建物ばかり載せてしまって申しわけないです。
イスタンブルは、来年2010年に〝欧州文化首都〟に選ばれていますので、急ピッチであちこちを手直ししている最中なんです。
観光に来られる方、その辺はご承知の上でお越しくださいね。


※キュルリイェ(Külliye)・・・・・モスク内または隣接して作られた、神学校・救貧所・病院・隊商宿・ハマム・図書館・霊廟などが集まる総合施設。


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by yokocan21 | 2009-05-14 18:30 | 普段生活  

歴史の町・アンタクヤ(その2)

ここアンタクヤは、イスラムの歴史としても相当に古いものがあります。
何せ、トルコ(アナトリア)に一番最初にイスラム教が入ってきた場所です!638年のことです。
(610年にムハンマドがアッラーの啓示を受け、始まったイスラム教が、わずか28年の後には、アンタクヤにまで入ってきたという事実。凄い勢いです!)

そんなこともあって、町の至るところにモスクが見られます。ぱっと見てオスマン朝様式なものや、最近になって建てられた感じの、比較的新しいものが多いんですけれど、中にはびっくりする程の歴史的なものもあって、うろうろ散策が楽しいのです。
しかも、この町の旧市街は、狭い路地が入り組んでいて、建物を見ながらのきょろきょろ歩きも格別です。

では、私の好きそうな古いモスクをちょっと紹介。

まず、アナトリアの比較的大きな町だと、どこにでも見られる、大モスクの総称の〝ウル・ジャーミィ(Ulu Camii)〟です。
モスクの外壁が全部商店になっている、モスクと商業の複合施設。(こういう複合体のモスクって、結構見かけます。)
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16世紀、オスマン朝初期またはマムルーク朝後期の建設で、モスクとして建てられたものの中では、アンタクヤで一番古いモスクと言われています。
モスクの様式はオスマン朝初期のものによく見られるものだそうで、随所にマムルーク朝様式も散りばめられているそうです。ミナレット(尖塔)は、細長い、見るからにオスマン朝のものですね。
地震によって痛みが酷かったため、現在の建物は1987年から2002年にかけて取り壊し・再建されたものです。その際、オリジナルの建材や石材などはそのまま使われた、ということです。

f0058691_9325197.jpgこちらは、モスクの中庭。

ウル(=壮大な)という割には、こじんまりとしたモスクです。

訪れた時はちょうど礼拝の時間で、中は拝見できなかったのですけれど、窓越しに覗いてみた限りは、シンプルな作りでした。


f0058691_934825.jpg大通りに面した側の門。
(このモスクには、裏通りに面して、もう一つ小さな門があります)

両側の円柱やアーチに沿った装飾、ローマっぽいですよね。ブドウのレリーフに見えます。

ディヤルバクルのウル・ジャーミィにも、ローマ風のレリーフが随所に見られるんですけれど、町の歴史を思って見ると、とっても興味深いです。



f0058691_93564.jpgこちらは、ウル・ジャーミィの裏側の路地ををブラブラ歩いている時に見つけたモスク。

〝イフサニイェ・ジャーミィ(İhsaniye Camii)〟

1221年の建立。地震で崩壊したため、1915年に再建されました。

アンタクヤのモスクのミナレットは、トルコでよく見かけるミナレットに比べると、かなり短いように思いました。しかも、どっしりとしている。(もちろん例外もありますけれどね)

写真を撮るのを忘れた、とあるモスクのミナレットも、どっしりと太くて短かったです。民家の屋根の横に、てっぺんだけがちょこっと見えている、という風な感じ。
町によって、また建てられた時代によって、ミナレットの形も色々。面白いです。



最後に紹介しますのは、またまたとっても興味深い歴史を持つモスクです。

〝ハビビ・ネッジャル・ジャーミィ(Habib-i Neccar Camii)〟
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モスクと神学校が一体となった施設です。
元々ローマ時代の神殿のあった場所に、この町に侵攻してきたイスラム軍がモスクを建てたのが始まり。
イスラム軍の侵攻が638年ですので、建築はおそらく640年頃でしょうか。
その後969年にビザンティン帝国の支配が始まると、このモスクは教会に替えられてしまいます。
教会として使われたのは、支配者がイスラム教徒のセルジューク朝にとって替わる1084年まで。
しばらくの間モスクとして使われますが、1096年に十字軍が侵攻してくると、また教会へと替えられてしまいます。
そして、1268年にマムルーク朝が侵攻してくると、またモスクへと替えられたのでした。

なぁんと、アンタクヤの激動の歴史、そのままの運命を受け入れてきたモスクですね~。
なお、17世紀のオスマン朝支配下には大規模な修復が行われ、現在の姿をとどめています。

ところで、このミナレット(尖塔)、どこかで見たことのあるのものだぁ、と思ったら、ガズィアンテップのモスクのものにそっくり!地理的に近いですからね、なるほどねぇ。

↓、お祈りの前に体を清めるための泉(シャドゥルワン)と、モスクの入り口。なお、この泉は19世紀のものです。
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ところで、ハビビ・ネッジャルは、紀元40年頃、アンティオキアにいた実在の人物で、この町で、イエス・キリストの教えを最初に信仰した人です。
当時のアンティオキアの人々は偶像信仰だったため、ハビビ・ネッジャルは次第に疎外されてゆき、改宗を求められるも、拒否し、仕舞いには殺されてしまいました。
熱心な信仰心のために殉教したハビビ・ネッジャルは、このモスクの隅に葬られています。
そして、このモスクの向こう側に見える山の名前も、〝ハビビ・ネッジャル山〟と名付けられています。この山の麓にも、ハビビ・ネッジャルの廟があるそうです。

アンタクヤの人々に尊敬され続けてきたハビビ・ネッジャルという人の、人柄がうかがえるお話ですね。

こちらは、モスクの裏手。門の横にある2階が突き出た部分、あの場所にハビビ・ネッジャルの霊廟があります。
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ハビビ・ネッジャル・ジャーミィ近くの通り。伝統的な、オスマン建築が並びます。保存状態が良くないのが、残念。
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こちらは、アンタクヤの町でよく見かけたシミット(Simit)屋さん。
トルコで一般的なシミットとはちょっと違って、ゴマがまぶされていませんし、かなり大型。
ギリシャのクルーリというパンに似ています。町には正教会の教会があることだし、ギリシャとの繋がりがどこかであったんでしょうかぁ。面白い!
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と、こんな感じの町なのですよ。歴史が渦巻く町って、歩いているだけでワクワクしてきます。
実は、前回訪れたときからは15年ほども経っているんです。あちこちがモダンに変身しているのは最近のトルコでは当たり前のことで、それを除きさえすれば、町の活気ある雰囲気、落ち着いた雰囲気は、当時のまんま。やっぱり来てよかったなぁと思いました!

で、次回アンタクヤ編の最終回は、ちょっと芸術と美味しい物です!お楽しみに~。

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【関連記事】
歴史の町・アンタクヤ(その1)
歴史の町・アンタクヤ(その3)
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by yokocan21 | 2008-10-30 09:44 | 旅・散歩  

シイルトのウル・ジャーミィ

自分が行ったこともない場所の、実際に見たこともないものを、この場で紹介する、というのは如何なものか~~~、とは思うんですけれどね、あまりにも素敵すぎるんで載せちゃいます。

かれこれ10日ほど前のこと、うちのダンナが出張に行った先の町・シイルト(Siirt)(※)で見つけた、とんでもなく私好みのモスクの話題です。
仕事の合間に町をブラブラしていた時に見つけて、「こりゃ、教えてあげないと~!」と思って電話をくれたのでした。
「すっごーいジャーミあるでぇ~。写真撮っとこうかぁ~?」というものでした。
*ちなみに我が家の会話は私と子供はコテコテ大阪弁、ですのでダンナのトルコ語も訳すと、こういう風な塩梅になるんです。
で、一日置いて帰って来て、早速見せてもらったのが、こちら。色々と撮ってきてくれましたので、細かく紹介してみます。

f0058691_8223697.jpgこの写真を見ながら、私、どっひゃーーーっ!
ひっくり返ってしまいましたぁ。素敵すぎます~♪

なんなんですかぁ、この一面の青いタイル!
よーく見てみると、何やら細かいデザインがされています。



では、じっくりと見てみましょう。

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ミナレット(尖塔)の上から順番に。

一番上の部分。

トルコ・ブルーの細かい文様がびっしり。美しい~。惚れ惚れ。


f0058691_8255880.jpgその下の部分。


f0058691_8262473.jpgその下の、台座の部分。

これ、クーフィー体でコーランの一部を書いてあるそうです。
アラブ文字のカリグラフィーです。

お花のような文様が可愛いです。


f0058691_8282413.jpg台座の一番下の部分。

タイルであるのに、どことなく丸みのある文様に見える技、凄いですねぇ。


これね、実物を見ると、もっと凄いんだと思います。ダンナなんて、モスクには殆ど興味のない人なんですけれど、それでも、すごい綺麗かったぁ、と言ってましたから。

で、このモスクは何なのか、と言いますと、ウル・ジャーミィ(Ulu Camii=大モスク)です。
シイルトの旧市街の真ん中にあるそうです。
建立は、1129年。セルジューク朝(イラク・セルジューク朝)のスルタン・マフムドⅡ世によって建てられました。

このミナレットは、最近になって修復されてようですので、こんなにもピカピカなんですよね。
2004年発行のシイルト県のパンフレットには、タイルが剥がれてボロボロの写真が載っていましたので、修復はほんとに最近のもののようです。
写真を見る限り、イヤミのない修復のされ方ですので、ホッとした気持ちです。

こちらは、モスクの正面。ミナレットが素晴らし過ぎる割には、モスクそのものはいたってシンプル。
セルジューク朝の匂いも感じないんですけれど、こちらも近年に修復されているようです。 
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f0058691_83815100.jpgこちらは、正面玄関上の窓のレリーフ。

星のモチーフが散りばめられています。
よーく見ると、ダビデの星もあちこちに。
繊細で綺麗なぁ~。


いやぁ、10年も一緒にいると、私の好みもだんだんとわかってきてくれて、こんなに写真までビシバシ撮ってきてくれて、感謝です。以前はモスクになんて寄り付きもしなかったダンナが、長年の私の影響でフラッとモスク方向に歩いていってしまう.....、いいことだぁ!
お土産に買ってきてくれた、シイルト名物のピスタチオよりも、この写真たちの方が私には嬉しかったです、今回は。

ということで、モスクのお話になると止まるところを知らない酔狂者ですので、このへんでお終いにしたいと思います。

※シイルト(Siirt)は、ディヤルバクルより東方面へ約200km。町の歴史は古く、バビロニア、アッシリアにまで遡るそうです。アラブ系住民もいて、旧市街にはアラブ風建築の建物も見られるそうです。

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by yokocan21 | 2008-05-21 08:35 | 旅・散歩  

マルディン紀行・5(モスク編)

前回紹介しましたモスクに続き、今回も〝マルディンのモスク〟、いってみます。
ここマルディンは、古くからイスラム系の王朝が活躍した土地柄、旧市街には、数々のモスクが林立しています。もちろん新しいものもあるんですけれど、特に歴史のあるものが目立ちます。
マルディンのモスクは、先が丸っこい感じで、どっしりとした印象のミナレット(尖塔)が特徴的です。ミナレットや壁に施された繊細なレリーフも、この町独特なものがあります。
そんな中から、素敵☆と思ったものを紹介します。

f0058691_613229.jpgアブドゥッラティフ・ジャーミィ(Abdullatif Camii)。またの名をラティフィイェ・ジャーミィ (Latifiye Camii)。

アルトゥク朝後期の1314年に、スルタンの家臣アブドゥッラティフ・ビン・アブドゥッラー(Abdullatif Bin Abdullah)によって建立されました。

ミナレット(尖塔)は、1845年、モスルの知事、ムハンメッド・ズィヤ・タイヤル・パシャ(Muhammet Ziya Tayyar Paşa)からの寄進だそうです。


f0058691_6144293.jpgこの正面の門構え、セルジューク朝の影響が大きいですねぇ。
元々、このアルトゥク朝自体が、セルジューク朝の配下から興った王朝だということを考えれば、納得でしょうか。
飾り気が殆どない分、正面のブルーや黒のレリーフが際立って綺麗!


f0058691_615612.jpgこのモスクは、二重の門構えになっていて、こちらは一番外側にある門。

修復されて間もないのか、ピカピカです。
こちらの門は、ちょっとレリーフにも凝っていて、なかなか見ごたえがあります。



f0058691_6154525.jpgメリク・マフムド・ジャーミィ(Melik Mahmud Camii) 。またの名をバブ・エス・スル・ジャーミィ(Bab Es Sur Camii) 。
1362年、アルトゥク朝元首、メリク・サーリヒ(Melik Salih)によって建立されたもの。

こちらも、門構えがセルジューク朝様式っぽいですね。


建物は正方形だそうで、中央部にドームが乗っています。
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内部。とってもシンプルな造りで、窓が少ないためか、薄暗かったです。
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ミンベル(※注)は木製で、よく見ると凝った彫刻が施されていました。
(写真は、許可を貰って撮っています)


スッティ・ラドゥヴィイェ・メドレセシ(Sıtti Radviye Medresesi)。 またの名を、ハトゥニイェ・メドレセシ(Hatuniyye Medresesi)。
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アルトゥク朝スルタン、クトベッディン・イルガーズィ(Kutbeddin İlgazi)の母、スッティ・ラドゥヴィイェ(Sıtti Radviye)の名の付いた神学校です。
12世紀の建立で、アナトリアでも最も古い神学校の一つとされています。(現在は使用されていません)
マルディン色の石で造られた、2階建ての重厚な建物です。

内部のモスク部分には、クトベッディン・イルガーズィ(手前)と母スッティ・ラドゥヴィイェ(奥)のお墓(石棺)が並べられています。
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トルコの高貴な方(男性)のお墓には、このように帽子(イスラム帽)がかぶされています。お墓によっては、ターバンということもありますね。また、女性のものには、白いスカーフが。
深い緑色は、イスラムの象徴的な色。

f0058691_6195939.jpgこちらは、イスラム教創始者・ムハンマドの足跡だとされているもの。

警備の警官のおじさんが、わざわざ鍵のかかったガラス箱を開けて下さいました。
男性のものの割には、意外と小さな足でした。

トルコは昔からイスラム教の王朝が連綿と続いている土地ですので、各地にムハンマドの聖遺物が残されていますよね。
ムハンマドの聖遺物をこうしてコレクションする、というのは、時の支配者にとっては実力を誇示する絶好のものだったのかもしれないですね。



最後に、
どうしても訪ねてみたい神学校があるんですけれど、いまだに叶えられていないのが。
ズィンジリイェ・メドレセシ(Zinciriye Medresesi)。またの名をスルタン・イサ・メドレセシ
(Sultan İsa Medresesi)といいます。
f0058691_6441468.jpgマルディンの町の、一番高い所に位置する神学校で、1385年建立の、石の彫刻が素晴らしいものだと聞いています。
2006年暮れ、神学校の上部の岩山が崩れ建物の一部に損傷が出たと、新聞で読みました。
そして、昨年(2007年)の春に訪れた時、地元の人にそのことを尋ねてみると、何と死者も出たらしい、ということなんです。大変なことになっていたらしいです。
よって、神学校は閉鎖中で、当分の間は立入り禁止だということでした。
続いて半年後の秋に訪れた時にも、そのことを聞いてみたんですけれど、やっぱり閉鎖中でした。
とっても残念なことで、悲しい思いでいっぱいです。
(こちらの画像は、www.discoverturkey.comより拝借しました) 凄い装飾でしょう~。憧れます。


※注 ミンベル(minber)・・・礼拝の際、イマーム(イスラム僧)が説教するために使う説教壇。


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【関連記事】
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・マルディン紀行3
・マルディン紀行4
・マルディン紀行6
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by yokocan21 | 2008-03-19 06:28 | 旅・散歩  

マルディン紀行・4(歴史概要&モスク)

久々に、マルディン(Mardin)の紹介でも。

大好きな町・マルディン。
ここディヤルバクルから南に約90km。車で1時間程と近いこともあって、この3年半の間にもう4回も訪れているくらいに、私にとっては魅力たっぷりな町なのです。
1年前にも紹介しているんですけれど、今回はもうちょっと踏み込んで書いてみたいと思います。
写真などは、昨年の春と秋に訪れた時のものです。

まず、マルディンといえば、この光景ですよね。
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岩山に貼りつくように建てられたベージュ色の四角い家々。岩山のてっぺんは城塞です。
前回の記事では触れなかった歴史についても、少し触れさせて下さい。この町は、あまりにも歴史が古くって、自分では頭の整理が出来ていなかったのですけれど、さすがに4回も訪ねていると、こんな頭でも少しずつ整理がついてきました。(興味のない方、サラサラーッと流して下さいませ)

〝北メソポタミア〟であるこの辺りに人が住み始めたのは、紀元前8000年頃のことで、マルディンが町として形成されたのは、紀元前4500年頃だといわれています。
地理的にとても重要な位置にあるマルディンは、古くから様々な民族に支配され続けてきました。
主なものだけでも、ミタンニ王国・アッシリア・ペルシャ帝国・ローマ帝国・ビザンティン帝国・アラブ人・セルジューク朝・アルトゥク朝・そしてオスマン朝。

紀元前4500年頃、スバリ人と呼ばれる人々がこの土地にやって来たのが町の始まり。
紀元前2850年、シュメール人の支配下に入り、その30年後の紀元前2820年にはアッカド人に支配されます。
紀元前2200年にはエラム人に支配され、一時的にヒッタイトやミディリ人にも支配されますが、紀元前1367年にアッシリアの支配下に入ります。その後、紀元前800年までマルディンはアッシリアの支配が続きます。アッシリア時代の町の名は、〝Erdobe〟。
その後、暫くの間はウラルトゥ王国に支配され、紀元前600年頃以降はバビロニア王国の支配下に入ります。ちょうどネブカドネザル2世の時代ですね。

紀元前539年には、ペルシャ帝国(アケメネス朝)の支配が始まり、紀元前335年にはアレキサンダー大王の支配、続いて紀元前311年からはセレウコス朝の支配、紀元前237年~131年の間はパルティア王国の支配を受けます。
249年からはローマ帝国に支配され、続くビザンティン帝国の支配を受けます。

640年にはアラブ軍の征服が始まり、この地はイスラム化が始まります。
692年にはウマイヤ朝、824年にはアッバース朝に支配され、1089年にセルジューク朝の支配下に入るまでの間は、ハムダ-ン朝(※注1)やマルワーン朝(※注2)に支配されます。
1105年にはアルトゥク朝(※注3)の首都となり、304年続いたアルトゥク朝の時期、マルディンは大いに栄えます。現在残っている主なモスクや神学校、隊商宿などはこの時期に建設されたもの。
その後、ティムール軍の攻撃にあい、町や城塞は破壊されてしまいます。
1409年からはカラコユンル朝(黒羊朝)、1462年からはアクコユンル朝(白羊朝)に支配されます。
そして1516年からはオスマン朝の支配下となります。

ひぃー、疲れたぁ。メソポタミア文明って凄く興味のある分野なんですけれど、いかんせん前後関係が殆ど掴めていないので、調べたはいいけれど、まとめるのが大変。知らない民族や王朝がわんさか。トルコ語の資料を元にしているんですけれど、間違った個所があればご指摘お願いします。

*** *** *** ***  *** *** *** *** *** *** *** *** *** *** ***

それでは、ここからが今回の本題です。

f0058691_0115928.jpg町のド真ん中にある、アルトゥク朝時代のモスク、シェヒディイェ・神学校及びジャーミィ
(Şehidiye Medresesi ve Camii)。

おそらく1201~1239の間に、アルトゥク朝のスルタン・メリク・ナスルッディン・アルトゥク・アスラン
( Melik Nasruddin Artuk Aslan)によって建てられました。
正確な建立年はわからないのだそうですけれど、13世紀のものだということは確かなようです。

元々は神学校として使われていたものが、現在はモスクとして使用されています。



メインストリートより、裏道に入り、階段を少し下ったところが入り口。
その入り口の上部にあるレリーフがこちら。繊細なレリーフが素敵♪
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f0058691_0131663.jpgミナレット(尖塔)。

このミナレットは1916年に建てられたものだそうですので、新しいですね。
ぐるりが畝状になった珍しい形です。
この町のモスクや神学校のドームも、このような畝状になった物が多くって、これはマルディン独特のデザインのようです。

上部のバルコニー部分に施されている装飾が、またとっても綺麗~。


f0058691_0141496.jpg別角度から。岩山を背景に。

いかにもマルディン的な光景です。



このモスクを上から見ると。中庭です。
f0058691_0144323.jpg

以前が神学校だったというのがよくわかります。回廊に沿って小部屋が並んでいます。
奥に見える泉は、山からの湧き水を引いてきているんだそうです。勿論、神聖なお水。

この町は、一番上の写真でもわかるとおり、急斜面に造られた町ですので、下の建物の屋根が目の前にある、という構造です。
このモスクは、大通りの一本下に建てられていますので、大通り沿いでは屋根の部分を有効利用。屋外カフェ(チャイ・バフチェシ)となっています。

そして、その屋外カフェ(実際にはモスクの屋根の上)から眺めたマルディンの町。
f0058691_0152451.jpg

岩山のてっぺんには城塞が。手前の大きな建物は警察だったでしょうか。郵便局も入っていました。
この眺めは圧巻でしたぁ!こぉんな絶景を眺めながらお茶が出来るだなんて、ひゃ~幸せ♪

とりあえず、今日はここまで。
次回は、他のイスラム建築を紹介予定です。

※注1 ハムダ-ン朝・・・10世紀、北メソポタミア地方(ジャジーラ)のモスル(現イラク北部の町)からアレッポ(シリア西北部の町)にかけて統治したアラブ人の王朝。詳しくは、こちら
 【追記】UP当初書いていました「ハムダニ朝」というのはトルコ語読みで、それを直接日本語に訳しても何も判らなかったのです。miriyunさんのコメントのヒントにより、「ハムダーン朝」とわかりました。本文、訂正しておきました。

※注2 マルワーン朝・・・10~11世紀にかけてディヤルバクルで興ったクルド人の王朝。
 【追記】トルコ語読みでは、メルヴァニ朝ですけれど、正確には、「マルワーン朝」。こちらも、本文、訂正しておきました。

※注3 アルトゥク朝・・・11~15世紀にかけて今のイラク北部・トルコ南東部を支配した、オーウズ系トゥルクマンの王朝。詳しくは、こちら


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by yokocan21 | 2008-03-18 00:23 | 旅・散歩  

シャンルウルファ・旧市街散策

前回に引き続き、ウルファ旧市街の散策です。
「聖なる地域」からほど遠くない所に散在するモスクや市場などを見て周りました。

まず、この町でおそらく一番古いと言われているモスク。ウル・ジャーミィ(Ulu Cami =大モスク)です。
f0058691_6412245.jpg

この場所には、元はシナゴーグだった建物を改修した、5世紀初頭建立の聖ステファノス教会が建っていました。そしてザンギー朝の1170~1175年の間、その教会の上に、ウル・ジャーミィが建てられた、ということです。
教会の中庭の壁や石柱は、モスクに替えられた後もそのまま使われ続けていて、鐘楼だった塔は、ミナレット(尖塔)(↓)となっています。八角形のミナレットのてっぺんには、時計が付いています。
シリア・アレッポのウマイヤド・モスクによく似た建築様式なんだそうです。
f0058691_6481362.jpg
また、このモスクの中庭には、とっても古そうな日時計がありました。(中庭の中央左寄りの、四角い石の箱のようなもの)
ディヤルバクルのウル・ジャーミィにも日時計があるんですけれど、この地方ならではのものなんでしょうか。

モスクの日時計については、miriyunさんこちらの記事でとっても面白いことが書かれていましたよ。


f0058691_6485395.jpg
こちらは、ハサン・パディシャー・ジャーミィ(Hasan Padişah Camii)
メヴリディ・ハリル・ジャーミィ(Mevlid-i Halil Camii)(※)のすぐ横にあります。

15世紀中頃、アクコユンル朝(白羊朝) のスルタン、ウズン・ハサン(Uzun Hasan)によって建てられました。
ルズワニイェ・ジャーミィ(Rızvaniye Camii)(※)のとよく似た造りの回廊が印象的だったのですけれど、中庭が狭くて写真に収めきれす残念です。
太くてどっしりとしたミナレットも、いかにも南東部らしい造りです。



f0058691_650143.jpgその近くにある、パザル・ジャーミィ(Pazar Camii)。   
詳しいことはわからずです。



f0058691_6504967.jpgウル・ジャーミィ近くの小径。

この辺りは、このような石壁の家々と細い小径が迷路のように繋がっていて、中世にタイムスリップしたかのような、静かな時間が流れています。

この町独特の建築で、出窓があったり、壁には細かいレリーフが施されていたりと、とっても趣のある地域なんですけれど、いかんせん保存が良くないのです。朽ち果てかけた家もあちこちで見かけられましたし、何とか綺麗に修復してあげてくださーい。
トルコの古い地区にありがちな、スラムっぽい町並みになりつつあったのがとても残念です。


f0058691_6513089.jpgこれは、その小径で見つけたあるお宅の玄関扉。

中央にカーバ神殿が描かれています。「メッカ巡礼に行きました」という記しなんです。
トルコの古い地区では、玄関扉の上にこのような「メッカ巡礼」記念の絵を描くお宅を時々見かけます。厚い信仰心の表れと、ご近所への自慢!?



こちらは、べデステン(Bedesten)と呼ばれる屋根付きのバザール。
f0058691_652183.jpg
1562年に建てられ、以後何度も修復されています。
前回(15年も前)訪れたときは、まだ修復がなされていなくて、ジメッとした、かなーり暗いイメージがありましたけれど、現在はとっても明るく清潔感もありますよね。
天窓から差し込む光が、とても幻想的でした。

この日はあいにく日曜日でしたので、この辺り一体に広がる数々のバザールの殆どがお休みで、
ブラブラとすることが出来なかったのが悲しかったです~。
銅製品や絨毯のお店、日用品のお店など、閉まっているところが殆どでした。あと、バザールの裏手には、職人街があり、そういうところって大好きなんですけれど、そこもお休み...。えーん。

べデステンの中のスカーフ屋さんで、この地方の男性が巻く『プシュ(puşu)』を購入。
f0058691_653123.jpg

調子に乗って、頭にプシュを巻いてもらった二人。(ダンナと友人のM氏)
(うちのダンナをご存知の方~、これ、ものすごく似合ってしまってました!想像してみて下さい。わははっ。)

南東部地方では、頭にプシュというスカーフを巻いている男性をよく見かけます。これ、アラブ人やクルド人の習慣なんです。田舎に行けば行くほど、プシュを巻いた人に遭遇する確率が上がります。
「赤と白の格子柄」・「黒と白の格子柄」、の2種類があるんですけれど、「アラブ人は赤白を、クルド人は黒白を」、とか、「冬は赤白を、夏は黒白を」とか、人によって言うことが様々。
最近は、日本でもちょっとた流行になっているとか...。日本では、アラブ語の「シュマーグ」で通用しているようですね。

じゃーーーん!ウルファ名物、唐辛子
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ウルファの唐辛子はイソット(isot)といって、特に辛味が強いので有名です。でも、単に辛いだけではなくって、旨みもあるのが特徴。この唐辛子に慣れてしまうと、他のはもう食べられませ~ん。
さすが本場だけあって、種類も豊富!

時間がなく、ものすごい駆け足で廻った旧市街なんですけれど、町の歴史と活気は思い存分感じることが出来ました。
「聖なる地域」の辺り一帯は、その昔はごちゃごちゃとした地域だったのですけれど、10年ほど前に一大プロジェクトで綺麗に整備され、緑に溢れお花が咲き誇る公園になっていました。その他の地域でも町の整備はなかり進んでいて、以前のイメージ〝限りなくアラブに近い〟は、殆ど感じられなくなっていました。これって、嬉しいんだか悲しいんだか...。

まだまだ見たいものがたくさんあって、一日では全く足りなかったです。ガズィアンテップでちょっとゆっくりしすぎました。
では、ウルファ紀行、もうちょっとだけお付き合い下さいね。<つづく>

(※)メヴリディ・ハリル・ジャーミィ・ルズワニイェ・ジャーミィ、ともに、こちらを参照ください。

【関連記事】
・シャンルウルファ・聖なる伝説の町を歩く
・シャンルウルファ・美味しいもの編
・ハラン(シャンルウルファ近郊の村)

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by yokocan21 | 2007-11-21 07:00 | 旅・散歩  

シャンルウルファ・聖なる伝説の町を歩く

もう随分と前のことになってしまいましたけれど(1ヵ月も前!)ガズィアンテップ紀行(※)を綴っておりました。今回は、その続き。シャンルウルファ(Şanlıurfa)紀行です~。
ちなみに私は、遠い昔にこの町を訪れていまして、今回は2回目です。

シャンルウルファ、トルコでは単に『ウルファ(Urfa)』と呼ばれています。
『シャンル(Şanlı)=〝名誉ある〟の意』が付けられたのは、トルコ共和国になってからのことで、1920年の祖国解放戦争で、フランス軍から町を守りきったこの町の人々を称えて『シャンル』という称号を与えられたということです。
前に紹介しています、ガズィアンテップの『ガズィ=イスラム戦士』も、これと同じ流れですね。

なお、『ウルファ』という名は、シュリヤーニ語での〝ウルハイ〟、またはアラブ語での〝エルルハ〟から派生したものなのだそうです。

前置きはこのへんにしておきまして、っと。

ガズィアンテップより東へ一直線、150km。途中ユーフラテス川を渡り、ウルファの町へ。ユーフラテス川の手前までは高速道路がついていますので、意外と早く到着です。(ちなみにディヤルバクルからだと、180km)。

ウルファも、南東部の町ならではの、とっても歴史が古く、そして多彩な歴史を持つ町です。
この町が町として形成されたのは、紀元前2000年にも遡るようです。フルリ人のミタンニ王国の主要都市として栄えました。その時の名は〝ワシュガン〟。そして、アッシリア帝国の支配の後、紀元前7世紀以降はメディア王国、続いてペルシャ帝国(アケメネス朝)の支配下に入ります。
その後、紀元前333年にはアレキサンダー大王の支配を受けますが、この時の将軍であったセレウコスⅠ世によって、この町の名を、マケドニア王国の首都であった〝エデッサ(Edessa)〟と同名に変えられました。
その後は、ローマ帝国、続くビザンティン帝国に支配され、キリスト教世界の中心地として、また文化・産業の中心地として大いに繁栄します。

640年にはアラブ軍が侵攻してきますが、その後また、1030年~1087年の間はビザンティン帝国時代が続きます。1087年からの暫くの間はセルジューク朝の支配下になります。
1098年には、第一回十字軍の侵攻を受け、エデッサの町は焼き払われ、崩壊します。そして、フランスの伯爵・ブーローニュのボードゥアンに町が支配されると、〝エデッサ伯国 〟が建てられました。
しかし、1144年には、モスルの太守・ザンギーがこの町を十字軍から解放、そして占領するようになり、1182年にはサラーフッディーン(サラディン)のアイユーブ朝の支配下に入ります。

その後、1244年にはモンゴル軍、1393年にはティムール軍に攻められ、1540年にはカラコユンル朝(黒羊朝)、その後はアクコユンル朝(白羊朝)、サファヴィー朝などの支配を受け、町は過去の栄光を取り戻せないまま、1516年にはオスマン朝の支配下となり、現在に至ります。

ということで、歴史の話になると、ついつい長くなってしまいます。この辺の歴史、たまらなく好きなもので~。

では、町をちょこちょこっと歩いてみましょう。
今回は、「聖なる伝説の町」ということで、この町に伝わる伝説を交えながら紹介していきます。

f0058691_857797.jpgまず、ここを見ずしてウルファは語れない、と言われている、預言者・イブラヒム(アブラハム)誕生の地
入り口奥にある岩の洞窟が、イブラヒム誕生の地といわれています。

私も、スカーフを被って入ってきましたけれど、湧き水が滴り落ちている薄暗い洞窟で、信仰心がなければ何の有り難味も感じられないものでした.....。
敬虔な人たちは、感動のあまり涙ぐんでおられたり。

この洞窟内の湧き水は、病を治してくれると信じられているそうです。


うーむ。でも、イブラヒム(旧約聖書では、アブラハム)って、一般的には、現在のイラク・ウルの町で生まれた、ということになっていませんか。
それがどうして、ウルファのこの洞窟だと、言い伝えられているんでしょうか。イスラム教の伝説、だと言ってしまえばそれだけのことなんですけれど。

f0058691_8575851.jpgこちらは、イブラヒム誕生の洞窟の横にあるモスク、メヴリディ・ハリル・ジャーミィ(Mevlid-i Halil Camii)

洞窟は、このモスクの中庭の一部になっています。建立は、オスマン朝時代。

このミナレット(尖塔)、ちょっと太めで先端がとんがっていないところが、何ともこの地方らしいです。


f0058691_85993.jpgオスマン朝時代、イブラヒムに敬意を表しこのモスクを建てたのですけれど、巡礼者が後を絶たず、モスクの外にも参拝者が溢れるようになりましたので、1986年、その横に、2本のミナレット(尖塔)を持つ大きなモスクを新たに建造したということです。
それが、こちら(←)のモスク。
このどちらもメヴリディ・ハリル・ジャーミィ。

こちらのモスクは、典型的オスマン朝様式ですね。



こちらは、ルズワニイェ・ジャーミィ(Rızvaniye Camii)バルックル・ギョル(Balıklı Gölü)といわれる魚のいる池。
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ルズワニイェ・ジャーミィは、1716年の建立。

バルックル・ギョルには、言い伝えがあります。
イブラヒムは、時の暴君・領主ネムルートや民衆が崇拝する偶像を嫌い、次々とそれらを破壊していきました。
一神のみを崇拝するものだと主張するイブラヒムに、領主ネムルートは怒り、今の城のある高台から、炎の中へと突き落としますが、あら不思議!炎は水に、薪は魚(鯉)に変わったのでした。イブラヒムは怪我ひとつせず、バラ園に着地したということです。
そして、イブラヒムの落ちたところが、このバルックル・ギョルなのです。
池には、ものすごくたくさんの魚がいて、餌をあげることも出来ます。すかさず声をかけてくる「餌屋さん」が餌を売っていますよ。

伝説では、領主ネムルートの娘・ゼリハは、イブラヒムの主張を信じ、自ら後を追って炎の中へと飛び込んでいったということです。そして、ゼリハの落ちた場所には、アイン・ゼリハ池(Ayn Zeliha Gölü)があり、こちらの池にもたくさんの魚が泳いでいます。(↓の写真がそれ)
〝アイン・ゼリハ〟とは、アラブ語で〝ゼリハの泉〟という意味だそうです。
アイン・ゼリハ池では、小さなボートがあり、ゆーったりとボートに乗ったりも出来ます。池の周りには、屋外喫茶店(チャイ・バフチェシ)があり、木陰で寛ぐのもよさそうです。
f0058691_915936.jpg

この2つの池の魚はとっても神聖なものであるため、もちろん捕ってはいけないし、食べてもいけないんです。

ルズワニイェ・ジャーミィの、バルックル・ギョル(魚の池)を挟んで向かい側にあるのが、ハリルル・ラフマン・ジャーミィ(Halil-Ür Rahman Camii)
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このモスクは、イブラヒムが炎の中へと突き落とされたその場所にあります。
キュリイェ(külliye)と呼ばれる、モスクを中心とした教育機関の様式のものです。
アイユーブ朝時代の1211年の建立で、ビザンティン時代の、聖マリア教会(Meryem Ana Kilisesi)の上に建てられたものだそうです。

このミナレット、いわゆるミナレット型ではなく、どう見ても教会の鐘楼にしか見えませんよねぇ。
教会とモスクの融合、ここにもありました~。

バルックル・ギョル(魚の池)はこのモスクの名にちなんで、〝ハリルル・ラフマン・ギョル〟とも言われています。

そして、旧市街のランドマーク、ウルファ城(Urfa Kalesi)
f0058691_951321.jpg

アッバース朝時代の814年、元あった要塞を改修し、築かれたもの。要塞の基礎が造られたのは3世紀だそうです。
コリント様式の石柱の碑文には、シュリヤーニ語でエデッサ伯国のことが書かれてあるようです。
頂上までは登れるんですけれど(遠い昔に来た時は、登りました~)、今回は時間がなくヤメ。

これで、ウルファ第一回目・「聖なる伝説の町」編を終わります。さすがに聖なる町と言われているだけあって、伝説をあちこちで聞きますし、町(旧市街)のそこここにモスクを見かけます。そのモスクがどれもとても個性的で、しかも歴史のあるもので、モスク好きには、たまらないのでしたぁ。
この地方独特の様式で建てられたモスクは、また日を改めて紹介していきたいと思います。
聖なる伝説に彩られた歴史ある町・ウルファ、次回は町の雑踏の中をブラブラと歩いてみましょう。


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by yokocan21 | 2007-11-17 09:21 | 旅・散歩  

ガズィアンテップ・旧市街散策

だ~いぶと前の記事で、「南東部地方・歴史を訪ねる&食いしん坊旅」などと謳っておきながら、すっかり書くのを忘れてしまっていました...。
記憶が薄れてしまわない内に、書いてしまいましょう。

6月上旬の週末、ダンス教室で仲良くなり良いお付き合いをさせて頂いている、M&Mさんご一家と一緒に、ガズィアンテップとシャンルウルファの旅に出掛けて来ました。

まずは、ガズィアンテップ(Gaziantep)
ディヤルバクルより西に約330km、南東部地方最大の商工業都市です。トルコで6番目に大きな町なのだそうです。トルコ人は、単に「アンテップ」と呼ぶことの方が多いです。

古代よりアインタープまたはアインターブと呼ばれてきたこの町は、地中海とメソポタミアに挟まれた地理的条件から、交通の要所として重要な役割を果たして来、なぁんと6000年の歴史を誇ります。

紀元前3000年頃からこの辺り一帯に定住民が増え続け、都市として最初に栄えた時代は、紀元前1800~1700年頃のヒッタイトの時代で、いくつもの王族が町を支配していました。
その後、紀元前850年にアッシリア王の支配下になり、続いてメディア王国、ペルシャ帝国(アケメネス朝)の支配を受け、紀元前4世紀にはアレキサンダー大王の支配、そして紀元前395年より紀元後638年までの間はビザンティン帝国の支配下になるという、目まぐるしく歴史は動いていきます。
その後、アラブ人やセルジューク朝の支配を経て、1516年よりオスマン朝の領土となります。

ま、歴史の話はこの辺にしておいて、町をサラサラ~ッと見て周ることに致しましょう。
まず、町の南側にデーンと構えるガズィアンテップ城(Gaziantep Kalesi)。
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元々6000年前に造られた砦の上に、3世紀のローマ時代に要塞として建造。それを6世紀のビザンティン帝国・ユスティニアヌス帝が強固な城塞として建造、その後1481年、エジプトのスルタン・カユトバイが今ある形の城塞として修復・改築したもの。
内部は発掘作業が行われていて、ハマム(トルコ風呂)や牢獄跡などがあります。
私たちが訪れた時は、この城一帯が修復作業の真っ最中でした。数ヵ月後(いや、数年後?)にはすごーく綺麗に整備された城を見学できることになりそうです。
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城からの眺め。旧市街を望む。

では、この城の麓一帯に広がる旧市街を散策。

城から見た、タフタニ・ジャーミィ(Tahtani Camii)。
建立は定かではないが、おそらく1557年。ミナレット(尖塔)の形がこの地方独特のものです。
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f0058691_2149394.jpgこちらは、城の真横にあるシルヴァニ・ジャーミィ(Şirvani Camii)。1677年建立。
イキ・シェレフェリ・ジャーミィ(İki Şerefeli Camii = 2つのシェレフェのあるモスク)として知られています。
〝シェレフェ(şerefe)〟とは、モスクのミナレットにあるバルコニーのことで、昔はここでお祈りの呼びかけ・エザーンを詠んでいました。

このシェレフェとそれに続く装飾部分には、青いガラスがはめ込まれていて、近くで見るととっても綺麗なのです~。


細く、車が一台通るのがやっとのこの旧市街、道も迷路のように入り組んでいて、現在地を把握するのが大変です。
小さな商店が所狭しと軒を連ねていて、物売りのおじさんの声を聞きながら、また職人さんのトンカン♪という槌音を聞きながら、遠い昔の町の様子を思い描きながら、てくてく散歩。

辿り着いたのは、こんな古めかしいカフヴェ(トルコ版カフェ)。タフミス・カフヴェ(Tahmis Kahve)。
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なんと、400年前の建物を今もそのまんま使っているという、すごーい歴史あるカフヴェです。
内部はこんな感じ。
f0058691_21503913.jpg

薄暗~い店内は、おじさん度超高し。でも、私たち子供連れの家族でも、温かく迎えてくれました。
元は、1640年にメヴレーニハーネ(mevlenihane)(←※注)として建てられたものを、1901年~1903年の間に、カフヴェとして使われるようになったとのことです。
で、ここで出されるカフヴェ(Kahve =トルココーヒー)なんですけれど、一見トルコの何処ででも見かけるコーヒーと同じ、でもダンナとM&M夫妻いわく、トルコで一番美味しい!のだそうです~。(私はトルココーヒーが苦手なため、チャイをオーダー)
ここのコーヒーをもう一度飲むためにだけでも、もう一回ガズィアンテップに行きた~い、んだそうですよ。そのくらい、歴史のあるカフヴェで飲むカフヴェは、お味も重みもひときわ際立っていたようです。

ちなみに、トルコでは町の片隅に、こういうカフヴェと呼ばれるおじさんの憩いの場があちこちにあります。
大抵は皆、チャイやコーヒーを飲みながら、カードゲームや、バックギャモン(トルコ語ではタヴラ(tavla))をしたり、ゆーったりと時間を過ごしています。

このカフヴェを後にして、もう少し行くと、ボヤジュ・ジャーミィ(Boyacı Camii)に出くわしました。
f0058691_21511599.jpg


現在建物は修復中で、中には入れなかったのですけれど、門の外からでも立派なモスクであることは、一目瞭然。
ガズィアンテップ最大のモスクで、1211年の建立ということはこの町で二番目の古さです。
白と黒の縞々模様のモスクは、ディヤルバクルでもよく見かけるものですけれど、これはトルコ南東部地方によくあるものなんでしょうね。
ドーム屋根が銅板、というのもちょっと変わっているなぁと思います。

f0058691_21514014.jpgミナレットは、マムルーク朝時代の1357年のもの。
てっぺんにシェレフェがあり屋根が付いていてる形、この町のミナレットではよくあるものです。そしてシェレフェの下の部分の装飾がとっても繊細で美しい!


f0058691_2573144.jpgこちらは、お土産屋さん。
この地方で織られているキリムも飾られています。ガズィアンテップといえば、民族衣裳も色とりどり派手な色合いのものが多いんですけれど、キリムも鮮やかなものが多かったです。
あと、銅製品や、手作りの木箱に装飾を施した物も有名。これらは後ほど改めて紹介しますね。


f0058691_21522722.jpgで、最後は、旧市街からは少し離れたところにあるんですけれど、ケンディルリ教会(Kendirli Kilisesi)。

1860年に建てられたのもがすぐに崩壊してしまったので、1898年に再建されたものです。
内部はガラーンとしていて、特に面白いものではなかったです。
現在は、何かの展示場として使われているようでした。

元々この町には、アルメニア人を始め多くのキリスト教徒が住んでいました。今は時代の流れの中で、キリスト教徒の数は少数です。

よーく見ると、壁には無数の銃弾の跡が残されています。
これは、1920年の祖国解放戦争の時の、フランス軍の攻撃によるもの。この時の激しい攻撃に、トルコ軍と町の人は団結し戦い、この町をフランス軍から守った、といわれています。
そのため、輝かしい称号である『ガズィ(Gazi)』(=イスラム戦士)という名を、この町に与えられたということです。


なかなか観光地としては知られていないガズィアンテップですけれど、いえいえとっても面白い町でしたぁ。町も活気があって、人々も温かくって、すっかりお気に入りになってしまったのです。
次回も、こんな歴史あるガズィアンテップの様子をお伝えしていきますね。


※注 メヴレーニハーネ・・・・・メヴレヴィー教団の道場。

★その他のガズィアンテップ紀行
   ・ガズィアンテップ・アートと工芸に触れる旅
   ・ガズィアンテップ・食いしん坊な旅



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by yokocan21 | 2007-10-04 22:01 | 旅・散歩  

装飾が美しいモスク二つ

ラマザン(イスラム教の断食月)(←※注)突入記念に、ちょっとモスク巡りでも。

ディヤルバクルに数多くある歴史あるモスクの中から、今日は二つを紹介します。どちらも、もちろん旧市街にあります。

まずは、メリク・アフメド・ジャーミィ(Melik Ahmed Camii)
旧市街の東西に走る大通り沿いにあるんですけれど、モスクの1階に商店が並んでいますので、入り口の門がわかりにくく、ミナレット(尖塔)を探しながら歩かないと、見つけにくいのが難点。
f0058691_3271793.jpg

16世紀後半、メリク・アフメド・パシャ(宰相)によって建てられたこのモスクは、一説には、かの大建築家、ミマール・スィナン(Mimar Sinan)が設計したと言われています。どうりで、内装はイスタンブールにあるスィナン設計のモスクたちによく似た雰囲気を感じます。

f0058691_3275542.jpg天井のペイントは、いかにも的なオスマン朝風。


f0058691_328464.jpg総タイル貼りのミフラープ(mihrap)。(メッカの方向を示す壁がん)。

ミフラープにタイルを使っている例はたくさんありますけれど、ここまで全面的に使用しているものは大変珍しいそうです。


f0058691_3291092.jpg私がとっても気に入っているのが、こちらのミナレットの台座のレリーフとタイル。

タイルは殆どが剥がれ落ちていて、当時の様子は殆どわからないんですけれど、細かい模様と少しだけ残ったトルコブルーがとっても綺麗。
レリーフもものすごく繊細で、まるで透かし彫りのよう。

そしてこのミナレットは、半分の高さまでの2つの階段が、お互いを見ることの出来ないように作られているのだそうです。その半分の高さのところで、2つの階段が合流するようになっているそうです。
うーむ、こういう造りのミナレットって、そうそう、ハサンケイフのチフト・メルディヴェンリ・ミナーレも
お互いが見えないように出来ているんですよね。一体どういう造りなんでしょう、中を見てみたいです。

ところで、このモスクを建てたメリク・アフメド・パシャは、地元ディヤルバクル出身の商人で、知事を務めたこともあり、後には宰相にまでなった偉大な人物です。
このモスクの他にも、通りを挟んだすぐそばにはハマム(トルコの風呂)も建設しています。このハマムは、今は使われていなくて、商店になっています。
また、このモスクのある大通りの名は、メリク・アフメド通り(Melik Ahmed Caddesi)です。


もう一つはこちら、サファ・ジャーミィ(Safa Camii)。 別名、パルル・ジャーミィ(Parlı Camii)。 また、イパリエ・ジャーミィ(İpariye Camii)とも呼ばれています。

↑のメリク・アフメド・ジャーミィの近く、大通りをちょっと入ったごちゃごちゃとした細い小道が入り組んだ所にあります。
f0058691_3302776.jpg


f0058691_3312319.jpgこのモスクは、15世紀、アクコユンル(白羊朝)時代に建てられたもので、屋根は八角形の大ドームと4つの小ドームからなる、この時代にはちょっと珍しい建築様式です。

見事な装飾が施されたミナレットが、何といっても素晴らしい!

玄武岩を基調とした白黒の縞々模様の剛健なモスクと、白い石で造られたこの優雅なミナレットの対比が素敵です♪

(礼拝中のため、内部の撮影は出来ませんでした)


f0058691_3321385.jpgミナレットの台座は幾何学模様のタイルで飾られ、本体にはクーフィ体やナスヒー体のカリグラフィーが至るところに散りばめられています。

写真ではよく見えないのがとっても残念。実物は、もう、うっとりする位に素晴らしく美しいのです~。

ちなみにこのミナレットは、その昔は大きなカバーで覆われていて、金曜日にのみカバーがはずされ、一般に公開されていたらしいです。そのためか、乳白色の石が汚れから守られ綺麗に残っているようです。


そしてもうひとつ、ミナレットに関するエピソード。
別名のイパリエ(İpariye)とは、「良い香りのする」という意味があるそうで、このミナレットを建築時、石に香料を混ぜて造ったとか。へぇ~、どんな香りがしていたんでしょうね、思いは15世紀に馳せ~。

で、最後に、サファ(Safa)の名前の由来。
15世紀当時、ここディヤルバクルを統治していたアクコユンル(白羊朝)のスルタン、ウズン・ハサン(Uzun Hasan)が交流のあったサファヴィー教団(←※注)の長に敬意を表し建てたもの、と言われているためらしいです。
ウズン・ハサンの妹が、その教団長の妻となっている関係。

ディヤルバクルには、まだまだ素敵な(というか、濃いもの好き受けしそうな)モスクがたっくさん。
暇をみては、旧市街のモスクを訪ねては喜んでいる私、また別の機会にその他のモスクも紹介してきますね。


※注 ラマザン(Ramazan)・・・・・イスラムの断食月間。今年は9/13よりスタート。約1ヶ月続きます。断食明けには「ラマザン・バイラム」というお祭りがあります(今年は10/12より3日間)。

※注 サファヴィー教団・・・・・13世紀末から14世紀初頭にかけて誕生した、イスラム神秘主義教団。今のイラン西北部・アルダビールを中心に勢力を拡大し、後のサファヴィー朝を建てる。


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by yokocan21 | 2007-09-16 03:47 | ディヤルバクル  

ハサンケイフ紀行

先週末、近場で面白い町々をちょっと旅してきました。題して、「トルコ南東部・歴史を訪ねる旅」
ここディヤルバクルから1泊2日で周れる範囲に、なんとも興味深い町々が点在しているんですよ。その旅の様子をこれから順に紹介していきたいと思います。

まず第1回目は、独特な景観が最近人気の(トルコ国内で)、ハサンケイフ(Hasankeyf)

ティグリス川にかかる橋。12世紀・アルトゥク朝時代に造られた橋の橋脚部分だけが残っています。
f0058691_4455970.jpg


その昔は、ヒスン・カイファーと呼ばれたハサンケイフの町は、ローマ・ビザンチン時代から交通の要所として栄えてきました。
7世紀半ば、アラブ軍に占領され、12世紀にはトゥルク系のアルトゥク朝の首都となり、その後(1232年)アイユーブ朝が支配するも、13世紀半ば、モンゴル軍が侵攻してきます。
そして14世紀には再びアイユーブ朝の主要都市となり、繁栄しました。町に残る主な建造物は、この時代に建てられたものが多いようです。
15世紀にはオスマン帝国の領地となり、今に至ります。
なんとも複雑な歴史をたどってきた町ですね。

f0058691_448840.jpgチフト・メルディヴェンリ・ミナーレ(Çift Merdivenli Minare)、
訳して「2つの階段のミナレット」と呼ばれる、エル・ルズク・モスク(El Rızk Camii)のミナレット(尖塔)。
お互いを見ることの出来ない2つの階段がある、特に珍しい建築だそうです。
(てっぺんに、コウノトリが巣を作っていました)

エル・ルズク・モスクは、14世紀・アイユーブ朝時代に建てられたもの。
アイユーブ朝ということで、モスクの名前もアラブ風。


f0058691_450597.jpg側面に施された、数々の繊細なレリーフが、とっても綺麗。
これは、その一部。ミナレットの台座部分に施されたレリーフ。



f0058691_4532869.jpgエル・ルズク・モスクのミナレット(尖塔)と、奥に見えるのは、ビザンチン時代に造られた岩山の上の城塞。
次回の記事では、この城塞からのレポートをいたしますね!


それでは最後に、その日のお昼ご飯。
ディヤルバクルからハサンケイフに行く途中に立ち寄った、バトマン(Batman)という町で食べた、コレ。
f0058691_4553851.jpgビュルヤン(büryan)といいます。子羊の石釜丸焼き。
豪快にも、お店の入り口近くに、デデーンと吊るされていました。

これを細かく切ってピデという薄型パンの上に乗せ、再び石釜に入れ少し焼いて持ってきてくれます。


f0058691_4565568.jpg

とっても柔らかくって、心配していた羊臭さも全くなくって、とっても美味しかったです!
子羊本来の美味しさを味わえるお料理ですね。

このお料理、バトマンの隣町、シイルト(Şiirt)の郷土料理だそうで、地元でも大変人気のあるもののようです。
トルコ人が遥か昔、中央アジアで遊牧民だった頃を彷彿とさせられる、なんともワイルドだけど、羊をよく知る人たちでこそ出来るお料理ですね。
ダンナの知り合いの、バトマン在住の方に連れて行ってもらいました。さすが地元ッ子は、よくご存知。

ちなみに、このバトマンという町とその近郊は、トルコで唯一の石油の採掘が行われているエリア。
バトマン郊外では、何台かの掘削機が動いているのを目にしました。でも、掘削機といっても、井戸のポンプを大きくしたようなものでしたけれど。何だか、細々とした感じでした。もしかしたら、他に大々的に採掘をしている場所があるのかも。
トルコ南東部は、石油の一大埋蔵地・北イラクと国境を接していますので、石油が採れるのは当たり前でしょうか。

そしてこちらは、ハサンケイフの手前、ティグリス川の川辺に咲く一面のポピー(ひなげし)♪
まさに、この時期にだけしか見ることの出来ない光景ですよ~。いやぁ、こぉんなに凄いポピー畑は生まれて初めてでした~。
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【次回は、ハサンケイフ第2弾をお届けいたします!】

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《関連記事》 ハサンケイフ紀行・続編
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by yokocan21 | 2007-05-26 05:25 | 旅・散歩